猿江恩賜公園の散歩と東京スカイツリー☆11月晩秋の紅葉☆
2011年11月21日  12月の猿江恩賜公園 

  東京 深川 猿江恩賜公園とその界隈の散歩

 
        
       交通機関   

◎都営新宿線 住吉駅
◎東京メトロ 半蔵門線 住吉駅

    駅の地上出口から
       1〜2分

  晩秋の紅葉と東京スカイツリー、
  江戸の名残を覘いてみる散歩。
 
  猿江恩賜公園は、江戸幕府の
  貯木場(猿江御材木蔵)跡。
  また、その界隈は、歴史の面影
  を残している。
  ワクワク楽しみな散歩路。
       
 東京スカイツリーは、「タワー」として世界最高の高さ(634m)になってから初めての秋を迎えた。

 猿江恩賜公園からは、そのタワーが紅葉した木々の間から鮮明に観る事が出来る。
     

公園内・スズカケの紅葉


紅葉の公園と東京スカイツリー


公園内から望む東京スカイツリー


公園横の横十間川


紅葉の公園で学ぶ女子高校


公園内の遊歩道


ボラ(鯔)が泳ぐ川


新大橋通り「本村橋」と横十間川



小名木川
「小名木川クローバー橋」から
小名木川橋・新扇橋・新高橋・
隅田川方面(西側)を望む。
 
 散歩は、公園内から、猿江恩賜公園横の「横十間川」内に設けられている遊歩道に移動し、約5分程度南下する。そこは、「横十間川と「小名木川」が交差する地点。
 この小名木川は、現、千葉県の
「行徳」から塩等を江戸の街へ運ぶ水路として、千葉側の中川から江戸街側の隅田川まで幕府が造り上げた人工川である。
※徳川家康が江戸に入った頃は、小名木川辺りまで海辺であった。

 江戸時代の小名木川の両岸には、徳川御三家「紀伊」・徳川御三卿「田安」の下屋敷、さらに大名の下屋敷や御用蔵等が建ち並んでいた。
(文久二年の古地図による)
 現在の小名木川両岸は、倉庫やマンション等に利用されている。

※中川の支流は、現在の埼玉県 岩槻・越谷・春日部等になるため、中川は、支流から農産物・米・木材加工品等を運び、帰りには塩・反物等を運ぶ舟で賑やかだったかも知れませんね。




 雑記
    猿江恩賜公園は、昭和30年代に
   プロ野球団 「大毎オリオンズ」の
   ホーム球場「東京球場」の候補地に
   挙げられた事もあった。



五百らかん道標跡
(下図参照)
 横十間川の「大島橋」の西側には
江戸時代に五百羅漢(曹洞宗 羅漢禅寺)にお参りする人々の案内標跡碑がある。

 江戸時代に建てられた大島橋は、小名木川に接する場所であったが、昭和2年7月、大島橋が現在の位置に移動した。その際、案内標は現位置に移動した。

※五百羅漢跡 現在は新大橋通りと明治通りが交差する地点、「都営新宿線:西大島駅」の地上部分



横十間川に架かる「大島橋」を渡ると、左側に釜屋跡碑が見える。
 この界隈は、江戸時代には、
「釜座」と呼ばれ、鍋や釜を製造していた。
 碑によると、この地は、寛永17年に近江の国から江戸に出て、鋳造業を営んだ釜屋六右衛門、七右衛門の居宅・作業場の跡である。

 現在、碑が設置している場所は、江戸時代の釜屋が存在した場所では無いようですね?
 釜屋が存在した場所は、現在のクローバー橋の大島側の道路・マンションから食品加工所(崎陽軒)の横までである。現在の「国永紙業株式会社」の場所は、釜屋跡である。
釜屋は、東西に長い敷地であり、東側は「釜屋六右衛門」。西側は「釜屋七右衛門」の敷地であった。
(下図参照)
明治の終わり頃は、釜屋跡横から高等学校横までの場所には「日本人造肥料会社」があった。 



釜屋跡碑
(下図参照)
 
現在この地域は、「釜屋掘」と呼ばれ、大島橋から明治通りまでの道路は、「釜屋堀通り」と表示されている。
 
※釜屋跡の昭和の時代は、
  練炭・豆炭の製造工場で
  あった。

  


散歩路 略図

 
 散歩路コースは、
地下鉄「住吉駅」下車、
猿江恩賜公園北側公園→横十間川遊歩道→大島橋→
五百らかん道標跡→小名木川クローバー橋→釜屋跡碑→
釜屋堀碑→釜屋堀通り→都営新宿線「西大島駅」。

 大島橋からの「釜屋堀通り」
には、大手ファミリーレストラン
や、大手食品加工所の「焼売(しゅうまい)」工場直売所 等、食を取る場所がある。

 悲しい事ですが、釜屋堀通り
に架かる貨物専用線のガード下の壁には、良く見ると、太平洋戦争・東京空襲の傷跡がまだ残っている・・・・。
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