アダモ年代別曲解説&批評 3

V 豊饒の時

1968〜70

@アルバム「オランピア劇場のアダモ ‘69
A 1968〜69年発表の45回転盤発表曲
Bフィフス・アルバム 「アダモ’70」
C1970年45回転盤発表曲(日本盤アルバム「行けよ僕の船」)
D オリジナル・サウンドトラック盤「ひなげしの島」の周辺


V 豊饒の時――1969〜1970

@ 1969年のアルバム『オランピア劇場のアダモ'69』


「オランピア劇場のアダモ ‘69」(Olympia‘69)
A1.ル・ネオン LE NEON
2.枯木の下で AU PIED D'UN ARBRE MORT
3.想い出の小川 LE RUISSEAU DE MON ENFANCE
4.そうじゃないの TU NE LE SAURAS PAS
5.過ぎし夏のワルツ VALSE D'ETE
6.摩天楼 LES GRATTE-CIEl
7.愛の眠りの中で DANS TON SOMMEIL
B1.愛の日記 LES AMOURS DE JOURNAUX
2.牛と子供 LE TAUREAU ET L'ENFANT
3.哀れなヴェルレーヌ PAUVRE VERLAINE
4.おばあさんとアイドルと小鳥たち LA VIEILLE, L'IDOLE ET LES OISEAUX
5.エフ・コム・ファム F… COMME FEMME
6.フィナーレ:エフ・コム・ファム〜インシャラーF… COMME FEMME 〜INCH'ALLAH




 
「オランピア劇場のアダモ ‘69」は、5枚のオランピア盤の中でも、おそらく最も多くの人が一番に選ぶ作品であり、この盤でしか味わうことのできない独特の強烈なムードを持った傑作である。アダモは、初期の東芝EMI時代にオランピア・ライヴ・アルバムを65年、67年、69年、71年と、一年おきに四枚発表している。65年の最初のオランピアが初期の活躍の臨場感あふれる記録にとどまる性質が強い、いわば単なる最初の「ライヴ・アルバム」だったのに比べ、67年のものではアレンジははるかに独自的に強化され、「アンサンブル」他、スタジオ盤ではなかった緊張感に満ちたパフォーマンスが得られた。67年のものは確かに優れた作品で、オランピア劇場という一つのポピュラー音楽文化の素晴らしさをよく示すものであった。しかし、69年の盤を念頭に置いて、「万一、この盤中の作品を上回るスタジオ・ヴァージョンがあるとしたら」と仮定してみると、それはそれでありえないことではなく、代替がきくかもしれないと考えることができるのである。この盤ではまだ、まだ一つ一つの名演・名唱は、オランピアという優れた舞台装置上における複数の好条件が寄り集まって、スタジオ盤に匹敵するまたはそれを上回る結果を生みだしたにすぎないという側面がないわけではない。しかしこの69年盤はまったく違う。このパフォーマンスはオランピアでなければ、そしてもちろん1969年でなければ得られなかったものであり、この後同じような芸術効果が得られるというのも想像がつかない、という水準まで達しているのだ。この意味で私はこのオランピアを自分の眼で見、聴いた人を心の底からうらやましく思う。(1969年私は小学一年生だったし、まだアダモの音楽に巡り会っていなかった。この事実はある意味私の密かな慰めになっている。このオランピアに行って感動をした人は世界一の幸せ者である。一方行ったけれども感動できなかったという人は、ある意味不幸かもしれない。「大金持ちになってこのオランピアの完全再現をアダモ氏にお願いする」というのが、かつての若き私の夢だった。)アダモのオランピア盤は、この後71年にさらに枯淡な境地へと進んでゆくが、69年のこのアルバムは、現代フランス文化の結晶ともいえる独特のムードを持ち、無限の奥行きと豊かで甘い響きを持った作品に仕上がっている。

 一曲目「ル・ネオン」は、1967年に発表されているヒット曲である。すでに評価の確立した曲がコンサートで演奏されるとき、そのパフォーマンスがオリジナル演奏の変奏曲のような、あまりオリジナリティのないものになるということはよくあることだ。(それがコンサートだと認識している人もいるだろう。)この曲もこのライヴではそれほど成功はしていない、というより、もともとの作品の音楽的質の問題であろう。

 二曲目の「枯木の下で」は小曲ながら、このアルバム最初の傑作である。この曲のイントロ――それはあまりに不思議な印象を与える管楽器の音色だ――が、一曲目の喧噪からしずしずと浮かび上がったとき、私たちはもう完全にこのアルバムの世界の中にいる。歌詞も素晴らしい。曲は途中で短調から同主調の長調に転じるという、この頃のアダモの得意のパターンで展開する*が、その後も滑るように素晴らしいメロディーが展開する。アレンジの趣味の良さは最高で、これ以外のものは考えられないといえるほどに素晴らしい、充実した時間を与えてくれる。曲は、スタジオ盤ではありえない唐突な調子で終わるが、それにも文句が付けられない。実際のところ、多くのポピュラー音楽作品でこうした終わり方は効果的なものとしては許されていない。しかし、アダモ作品のように音楽内容が充実していれば、こんな終わり方さえ一つのエスプリである。

*同主調の短調から長調へと転ずるパターンは1968年11月発表の「ジプシーが来るとき」(QUAND PASSENT LES GITANS)から突然始まった手法である。このアルバムではこの「枯木の下で」の他「愛の眠りの中で」「牛と子供」が同じ構造を持っている。こうした曲は1980年までに発表された全作品中には77年の「セイヴ・ミー」(SAVE ME)にいたるまで16曲ある。また、これとは逆に同主調で長調から短調に転ずるパターンは「愛の忘却」(ET T’OUBLIER)一曲だけである。短調から長調への変化という手法もアダモという才能の向日的な性質・哲学を示しているといえるだろう。)

 三曲目「想い出の小川」は、一曲目同様ヒット曲の再演の感は免れない。(スタジオ盤は1968年発表)。たしかに、独自的とはいえないまでも別のアレンジがなされ、メロディーごとの表情の変化も十分にある。それでも、このコンサートならではのソフトで甘い味付けはこの曲をオリジナル曲以上のものにしてはいない。スタジオ盤は、少年時代の透き通った記憶を感じさせるが、ここではそうした清冽さはなく、こちらの少年時代は多少感傷的な仕上がりに終わっている。この曲は浮かび上がるように始まり、静かに沈み込むように終わる。

 四曲目「そうじゃないの」はスタジオ盤もあるが、完成度はこちらの方が明らかに上である。コンサートを楽しく彩る佳曲である。

 五曲目「過ぎし夏のワルツ」は、スタジオ盤が非常に優れていて、このオランピア・テイクの及ぶところではない。この曲はやはり夏の曲である。冬の暖かい暖炉を思わせるようなムードのこのアルバムのイメージからは少しかけ離れているかもしれない。

 六曲目「摩天楼」「ル・ネオン」同様ヒット曲の歌い直し的感覚が強い。別にここに入ってなくても惜しいとは思わない。

 A面の最後「愛の眠りの中で」は、詩情あふれる佳曲で、このオランピアのムードによくあった曲想を持つ。時にはこんなに素晴らしい世界があろうかと思わせる。スタジオ盤より優れている。


 A面の曲の解説が終わったところで、すでにたびたびふれているスタジオ盤との対照関係を確認しておきたい。

スタジオ盤がオランピア69(1969年1月9日録音、同20日発表)の以前にすでに発表されているもの
・・・ル・ネオン(67/9)、想い出の小川(68/5)、過ぎし夏のワルツ(68/8)、愛の日記(68/11)、哀れなヴェルレーヌ(68/11)、エフ・コム・ファム(68/8)

スタジオ盤がオランピア69以降に発表されたもの
・・・そうじゃないの(69/2)、摩天楼(69/2)、愛の眠りの中で(69/2)、牛と子供(69/2)

スタジオ盤が発表されていないもの
・・・枯木の下で、おばあさんとアイドルと小鳥たち

B面一曲目の「愛の日記」は、決してメロディアスな曲ではなく、またオランピア・テイクほど優れてはいないスタジオ・テイクが先行発表されているが、しかし、こちらはこのアルバムのB面の幕開けとしてあまりに見事な曲である。スタジオ・テイクでは表現しきれなかった輝かしいステージの夢と栄光がここに再現されている。当時小学生の私はこの曲を聴いて何度スポットライトとカメラのストロボの光に満ちた、忙しいしかし勇ましい若者の気概に胸躍らせたことだろう。エレキ・ギターとシンバルの響くイントロが始まると、胸をたかぶらせずにはいられない。

二曲目「牛と子供」A面2曲目「枯木の下で」に続く真の傑作である。しかし「枯木の下で」では軽やかで詩情あふれていた個性はこちらでは影を潜め、沈鬱でしかも濃厚な色彩感に仕上がっている。この曲はまさにライヴ盤の中盤にふさわしく、コンサートのムードを凝縮し最大限に活かしたアレンジがなされている。歌詞はアダモの天才が自在に発揮され、一瞬謎かけともとれる強烈な最後の一行に至るまでゆるむことがないメロディーと詩が一体となって私たちの脳裏にカッと焼き付くような心象風景を刻み込む傑作中の傑作である。

「牛と子供」に続いてすぐに流れてくるのは「哀れなヴェルレーヌ」で、この曲はフランスのべスト盤にもよく出てくる曲だが、実際には冗長でそれほど優れた曲とも思われない。本国での人気もおそらく、有名詩人を題材に利用しているからではあるまいか(実際フランスでは一時期そうした風潮――ランボーやヴェルレーヌの詩に曲をつけて歌うという、陳腐を通り越してほとんど悪趣味に近い権威主義的ポピュラー音楽の風潮――があったという。)

次の「おばあさんとアイドルと小鳥たち」は再び非常に優れた作品で、スムーズで単純な物語口調の曲でありながら、音楽的実質は高い。このような単純な構成の曲を傑作にまで高めているのは、言うまでもなくアダモの非常に頭脳的な歌唱力である。それは、実に丹念に曲全体に配慮されている。そして中盤のLa vieille bon et malgre me donna de son pain…から続く一節などは、音楽神と詩神との奇跡的な融合の一瞬としか思えない。そしてこの一行はこの作品の評価を完全なものにしている。(アダモの作品にはこの行のように、「作曲家(作詞者・歌手)がその作品を誰よりも非常に深く理解しているのだ」と非常に深く印象づける、アダモ以外ではまずモーツァルトにしか感じ取られない一種の芸術家としての最高の機微のようなものを感じさせる一瞬がある。)そしてもちろん最後の一行は言うまでもなく、アダモのストーリー・テリングの才能を明らかにしている。アレンジも繰り返すまでもなく最高の趣味である。こんなに素晴らしい、こんなに豊かなコンサートが他にありうるだろうか。

最後の曲「エフ・コム・ファム」は、本来の音楽性という意味と、この曲の見事な変身という意味で二重に驚かされる傑作である。この曲は本来1968年8月に「過ぎし夏のワルツ」「海に残る思い出」(ET SUR LA MER)とともに、シングル盤で発表されている。もちろん明らかに、夏という季節を意識した曲集である。そして、この曲のスタジオ・テイクも、あたかも光り輝く海からの潮風と潮騒が聞こえてくるような傑作曲だった。しかし、このオランピア・テイクではまったく新しい意匠を纏い、強烈な芳香を放つムードあふれるさらなる傑作に仕上がっている。普通、誠実な芸術評論家であれば、曲のムードへの評価はほどほどにすべきである。というのも「ムード」とは純粋芸術と言うよりはサブカルチャー的具象文化の副産物であり、その時代の雰囲気によって変わってしまう、ある意味色褪せやすいものであるからだ。純粋な芸術作品は特定のムードを持たないという考え方も成立するかもしれない。しかしこの曲においてはどうだろう。ムードは完全に抽象化された指向性を持ち(具体的な音にたとえるならそれはアダモの歌唱の合間に挟まれる女声に象徴されている)、一瞬たりとも世俗の「ムード」に堕する事はない。どのような豊かなメロディーにあってもけっしてこうした抽象性を忘れないアダモの天才が、後の「夢の世界」という驚異のアルバムを生み出すことになるのだ。かつて、ある著名なクラシック音楽評論家が、シューベルトの傑作「ます」のメロディーが、「歌曲の場合とピアノ五重奏曲の場合とで、こんなにも音色が変わってしまうのか」と驚嘆していたのを読んだことがあるが、ずいぶん程度の低い話をしているなという感想を持った。テンポとアレンジが変われば、豊かなメロディーであればあのくらいの変化は前提に考えるべきなのだ。しかし、この「エフ・コム・ファム」の色彩感の違いはそれらをはるかに超えている。これは完全に新しい創作であって、まったく同じ曲がこれだけ異なる内実を持ち得たという音楽上の奇跡の一例である。
 この曲は、聴いている間ずっと「続いていてほしい、この貴重な愛のひとときが終わらないでほしい」と願い続けずにはいられない傑作である。というのも、ここにある感動には余分な興奮的要素がなく、音楽が表現している空間の内容自体が、現代人であれば誰でも願わずにはおれない満ち足りた愛と美の時間の再現であるからだ。それはすでに興奮というレベルを通り越して、一種の何気ない軽さのようなものを身につけている。人生の中にある美しい空間・時間とは、こんな風であるはずだ、またはこんな風であってほしいと再認識せずにはおれない傑作である。(このような「何気なさ」を身につけたまた別の傑作が、約3年後の「太陽に開く」JE N'OUVRIRAI QU'AU SOLEILである。)

このあまりに名残惜しい終曲を経て、フィナーレに入る。アルバムで聴いている私たちがこれだけ名残惜しいのだから、その場で聴いていた人たちの想いはどれほどのものだっただろう。

 最後に、私個人が感じるこのアルバム中の各作品の芸術的実質をランキングしてみたい。

S(アダモ作品の最高傑作に入るもの)
 枯木の下で、牛と子供、おばあさんとアイドルと小鳥たち、エフ・コム・ファム

A(このオランピア盤中の一曲として高く評価できるもの)
 そうじゃないの、愛の眠りの中で、愛の日記

B(スタジオ盤の方が良いもの)
 ル・ネオン、想い出の小川、過ぎし夏のワルツ、摩天楼、哀れなヴェルレーヌ

 このようにこのアルバム「オランピア劇場のアダモ ‘69」は、決して全曲が傑作というわけではない。ある意味質的アップダウンは激しいのかもしれない。しかし、傑作曲の詩情あふれるムードは、「スタジオ・テイクの方が優れているのでは…?」と思わせる曲群をも、幕間の憩いのひとときにすり替えてしまうほどに強烈で豊かだ。このアルバムは、おそらくすべてのポピュラー音楽のライヴ・アルバムの中でも最高の一枚であり続けるに違いない。


A 1968-69年発表の45回転盤発表曲

a 1968年45回転盤発表曲(8曲)

5月10日「想い出の小川」LE RUISSEAU DE MON ENFANCE「一年前の恋」IL Y A JUSTE UN AN

8月 「愛のワルツ」VALSE D'ETE「海に残る想い出」ET SUR LA MER「エフ・コム・ファム」F… COMME FEMME

11月25日「哀れなヴェルレーヌ」PAUVRE VERLAINE「ジプシーの来る時」QUAND PASSENT LES GITANS「愛の日記」LES AMOURS DE JOURNAUX

b 1969年45回転盤発表曲(12曲)

2月「摩天楼」LES GRATTE-CIEL「愛の眠りの中で」DANS TON SOMMEIL「そうじゃないの」TU NE LE SAURAS PAS「牛と子供」LE TAUREAU ET L'ENFANT

4月28日「明日は月の上で」A DEMAIN SUR LA LUNE「愛の会話」ET VOUS N'ECOUTEZ PAS「金ピカの馬車」LE CARROSSE D'OR「君の心の影」DE QUOI AS-TU PEUR, IMBECILE

?月  「空が君を恋したら」SI LE CIEL EST AMOUREUX DE TOI「ウィ・ラ・メール」OUI, LA MER A BERCE TANT D'AMOURS…

10月13日「小さな幸福」PETIT BONHEUR「ヘイ・ジュテーム」MON CINEMA

c 日本でのみ発表となった1969年作品(1曲)

「君に歌う」CHANSON POUR TOI

d 1969-70年作品でフランスで発表されていないもの (4曲)

「愛の旋律」(LITTLE SONG)という別タイトルが付けられて発表された「行けよ僕の船」の英語盤と前後して、英米で録られたレコーディングが三つある。これらは69年と70年に録られたものである。他にも英語で歌われていてフランス語では発表されていない曲は多くあるのだが、ここではフランスまたは日本で発表されているものだけに絞り、関連曲として紹介しておく。(ただし「愛の旋律」は演奏も歌唱も後に解説する「行けよ僕の船」の単なる英語版の域を出ないので解説はここでは割愛する。)

「マジック・キー」(69) THE MAGIC KEY
「君を待ちわびて」(69) WHY DON'T YOU COME BEFORE
「愛の旋律」(70)(LITTLE SONG)

「マジック・キー」(70) THE MAGIC KEY (with I Delfini)

 この二年の間に発表された45回転盤の曲は「オランピア劇場のアダモ’69」または「アダモ’70」に収録されているものがある。オランピア盤に収録されているものは別テイク・スタジオ盤だが、「エフ・コム・ファム」という奇跡のような例外を除けばすべてオランピア盤の方が優れている。また、「アダモ’70」に含まれている5曲は同じテイクである。これらの曲に関しては、解説は下記アルバムおよび「三拍子のアダモ」の方を参照していただきたい。特記する必要がない限り割愛する。

 
「想い出の小川」は、強力な推進力はないが、透き通った美しさを持つ佳曲である。詳しい解説は「三拍子のアダモ」を参照されたい。

「一年前の恋」は、あまり成功していない作品で、もっと昔に発表されていてもおかしくないと思わせる水準である。

「愛のワルツ(過ぎし夏のワルツ)」は、非常に美しい、その美しさだけで完全に完成してしまっている名作である。アレンジも非常に効果的で素晴らしい。このような種類の美しさを誇るメロディーを書いたのは他にはブラームスとヨハン・シュトラウスJr.だけである。(詳しい解説は「三拍子のアダモ」をごらんいただきたい)。

「海に残る想い出」は、いわば「夏の曲集」をねらった45回転に含まれる、多少流行歌的な作品で、前後の曲が優秀なだけに実質の軽さが目立つ。前後の作品はバラード調の曲であるからより良く聞こえるのだという推論は当たっていない。というのも、私たちはこのすぐ後に「ウィ・ラ・メール」という名曲に出会うことを知っているのだから。

「エフ・コム・ファム」は、潮風の匂いが漂ってきそうな傑作で、長い曲なのだがその長さがそのまま海や夏の広大さや永遠を感じさせるという仕組みにできている。この、明るい、光に満ちた作品は次のオランピア盤で驚くべき深化を遂げる。それはまさにアダモの才能でしかなしえなかった、響きの展開である。

「哀れなヴェルレーヌ」は、スタジオ盤でもオランピア盤でもあまりパッとしない冗長な作品で、詳しくはオランピア盤の解説を参照されたい。

「ジプシーが来るとき」は、おそらく初めての同主調移動の曲で、アダモらしい力を持った作品だが、だからといって、不思議とそれ以上のものにはなっていない。今となってはどこか時代の影に浸食されている。時には楽しんで聴ける曲だ。

「愛の日記」は、オランピア盤の方がずっと優れている。そちらと比べて明らかに劣るとはいっても演奏や歌唱は特に失敗しているという訳ではない。しかしこちらにはあの69年オランピアの魔法はかけられていない。それにしてもシタールのようなインストゥルメンタルの響きは緊張感を削いでいて失敗だ。

「摩天楼」は、優れた歌詞を持つが、曲は何度か聴くうちにどこか空回りをして、発展性がないように聞こえてくる。別に悪い曲ではないが、今ではこの曲にハマるのは一苦労だ。

「愛の眠りの中で」とこれに続く二曲は、オランピア・テイクに比べて明らかに遜色がある。あのアルバムでは、愛の翼を広げるかのように素晴らしいこの曲も、スタジオ・テイクではどことなく冗長に感じられるのはなぜなのだろうか。

「そうじゃないの」は、インストゥルメンタル部分はオランピアと酷似している。しかし歌唱の部分はアダモも子供もどうしてもオランピア盤のような自然さに欠ける。

「牛と子供」は、オランピア盤テイクに比べると熱いムードと緊迫感に欠ける。ギターによる装飾音は無駄が多い。また、最後の管楽器の音の選択には明らかな失敗がある。

「愛の会話」は、アダモらしい可愛らしいバラード曲。ベスト盤にもオリジナル・アルバムにも収められないこうした曲群のなかでは、出来が良いものである。

「金ピカの馬車」は、挑戦的だが本質的な部分で深刻さが不足して、歌謡曲的である。

「君の心の影」も特に際だった部分がない。悪い曲でも良い曲でもない。途中からのマーチは音楽的必然性がなく、芸術作品としてのスマートさを損なっている。「君に歌う」は後の「愛と命」同様、日本でだけしか発表されていない作品で、アダモらしい可愛らしい音楽だが、それ以上ではない。

「マジック・キー」(69)は、もともとは「エ・アプレ」同様他の歌手のために作られたものをアダモが自分で歌い直したものである。アダモ作品は英語の歌詞を持つ部分にくると急に音楽的表現の幅が狭まる傾向があるが、この曲はかなり成功している方である。アレンジはあまり完成度が高くない。自分独自のものを出そうとしながらもアメリカン・サウンドを意識しすぎて、真のオリジナリティーには至っていない。しかし、それでも曲は精悍な精神を反映させ、優れた側面を持っている。十分に聴ける作品である。歌詞は発想が良く、アダモの入門者を納得させるに十分だが、他の作品の歌詞の感覚的な素晴らしさに比べると、少し意味内容を伝えようとしているだけの散文的な印象を与える。

「君を待ちわびて」(69)のメロディーは、約3年の後に傑作アルバム「愛が帰るとき」中で「雨のマント」となってよみがえる。しかしこの時点では、不完全燃焼的でしつこく、優れた作品とは言い難い。

「マジック・キー」(70)は、歌詞はそのままにメロディーを一部変更し、アダモのバンド、イ・デルフィニと新アレンジで録音し直したものだが、アダモには珍しく、新しいこちらのテイクの方が失敗している。途中から長調に転ずるパターンは完全に自家中毒症状を起こしている。


B 1970年発表のアルバム『アダモ'70』
「アダモ’70」(ADAMO)
A1.ヘイ・ジュテーム  MON CINEMA
  2.君はシンデレラじゃない  NE TE PRENDS PAS POUR CENDRILLON
  3.ウィ・ラ・メール  OUI, LA MER A BERCE TANT D'AMOURS…
  4.罪深い女  LA PECHERESSE
  5.小さな幸福  PETIT BONHEUR
  6.時は過ぎていく  GAGNER DU TEMPS
B1.逆さまの世界  LE MONDE A L'ENVERS
  2.空が君を恋したら SI LE CIEL EST AMOUREUX DE TOI
  3.ミランドのクリスマス  NOEL SUR LES MILANDES
  4.明日は月の上で  A DEMAIN SUR LA LUNE
  5. エ・アプレ ET APRES

 日本で「アダモ’70」として発表されたこのアルバムは、本国フランスでは(例によって)単に”ADAMO”というタイトルで発表されている。曲目はまったく同じだが、曲順はA1とA5が入れ替わっている。このアルバムの発表時点ですでにシングル盤で発表されていたのはこの二曲とA3とB2の計四曲であったが、A5は特に人気が高かったという事情があったのではないか。というのも、フランス盤と比べて日本盤の曲順の方がずっと優れているからだ。この変更が、日本の東芝EMIの編集者の明察によるものなのか、それとも本国では意図とはずれた曲順を強要されたかまたはたまたま判断を誤ったアダモ自身の変更によるものなのかは、知られるところではない。しかし、「小さな幸福」を一曲目、「ヘイ・ジュテーム」を五曲目に配した本国盤はあまりに場違いな印象を与える。音楽的なまとまりを考えるなら断然日本盤だ。

 スタジオ盤としては五枚目、オランピア盤を入れると通算八枚目のこのアルバムは、アダモの作品の一つ一つが成熟し、曲集をつくっただけでも各々の作品が十分に求心的にトータル・アルバムを指向し始めたことを示している。この前後のオランピア盤はそれぞれ他のものに代え難い個性を持ちながらもアレンジをも含めた完成度においてはムラがある。それに比べ、このスタジオ・アルバムではそのような格差はかなり埋められている。もちろん優れた曲をいくつか取り上げることはできる。しかしそれは他の曲が優れていないからと言うよりもそれらの曲が飛び抜けているからである。

 アダモのさらなる音楽的発展はこのアルバムの一年後の「アダモ、オランピア’71」から起こるというのが私の持論だが、あの盤が新しい緊張感と特徴を示しながらも解決すべき問題点をはらんでいるという事実と比較すると、このアルバムはその変化の直前の完全にバランスがとれ完成しきったアダモ世界の素晴らしさを堪能することができる。何ら深読みをしなくとも、「良い曲」が多いのである。

 一曲目「ヘイ・ジュテーム」は、「夜のメロディー」直伝の、この芸術家独特の憂鬱な内なる暗い炎を感じさせる作品で、アレンジも非常に優れている。歌詞も、成功に伴うマス・メディアとの言いしれぬ心の葛藤を、彼特有の鋭敏な危機感をもってとらえたものである。この曲とA5、A6はアダモ自身のアレンジであるが、この作品では完璧に成功している。一般に作曲家が非常に優れた才能を持っていても、自身のアレンジが常に一番優れているとは限らない。原曲をわかりやすくふくらまし、わかりやすくすることで作品の持っている表現の幅を広げて質的総量を増やすのは、楽器・音色の第三者的プロフェッショナルが行った方が良い場合も多い。本来原作者は、自分の生きている空間から抽象的に音・色・言葉などで、鑑賞者に信号を送る存在だ。それが抽象的であるが故に、再び鑑賞者の心に入ったとき、大きく拡がるのである。途中経過は、他の人に任せた方が良い場合が多いのだ。A5とA6では、原作者の創作現場むき出しのアレンジという感がないでもない。しかしこの「ヘイ・ジュテーム」についてはまったく隙がない。完成度の高い作品である。この曲は歌唱が終わってからのキーボードのメロディーを中心とした部分も素晴らしい。

 二曲目の「君はシンデレラじゃない」は、アダモの女性に対する接し方の一つが非常にはっきりと浮き彫りにされた作品。(アダモは、おずおずとした女性を褒め称え、元気づけようとする視点をしばしば打ち出している。)二曲目にふさわしい豊かな情感を湛えた作品。このアルバムの中では標準的なできばえかもしれない。多少甘く、感傷的な側面もあるが、それでも前作の「哀れなヴェルレーヌ」のような冗長感は皆無で、よく整頓された音符運びが無駄のない、そつのない音楽を作り上げている。やはりこの作品あたりから、こうしたアダモの作曲技術は円熟したと言って良いのではないだろうか。

 第三曲目「ウィ・ラ・メール」は、おそらく全アダモ作品中でも十指に入る傑作で、最高の音楽と詩に最高のアレンジが付いている。最初の一音から私たちは、澄みきった追憶の世界へ誘われる。そして歌はTu t’en vas ma pauvre amourette (哀れな恋人よ、おまえは立ち去る)という強烈な一行から始まる。この部分と続くもう一行は、完全に独立した導入部の役割をしていて、一度しか使われない。そしてこの後は三つの部分からなるメロディーが繰り返される。この曲の素晴らしさは強調してもしすぎるものではないが、たとえば、バックを流れる女声の「シャラララーラ」という音楽の素晴らしさに魅了されずにいられる人がいるだろうか。このメロディーは、作品内部の虚ろで透き通った抽象的な空間を螺旋を描くかのように駆け抜け、私たちが今までに体験したことのない異空間を創り出す。(こうしたアダモ作品の立体性は、「オランピア劇場のアダモ’67」「アンサンブル」から始まった。あの作品では女声の効果が最後の部分だけに使われているのだが、この作品ではほぼ全体を網羅していて、ずっと視覚的である)。アダモは私たちに横顔を見せ、それから真正面を向き訴え、それからまた語り始める。曲想はあくまで精悍で男性的だ。人間は過去の愛を振り返り、このような気分になることができる。それがすなわち人間の素晴らしさだと言わんばかりである。その精悍さの質から「『人間のもの』というより『男性のもの』なのではないか」と錯覚する人もいるかもしれない。――そんなことはない。すべての人間に通じる感情である。

 四曲目「罪深い女」も非常に優れた曲で、前曲「ウィ・ラ・メール」に続いてこの曲が出るということ自体が一つの奇跡である。この曲は前曲のような、わかりやすいお膳立てはない。しかし、曲はふとした人生の一こまを非常に高い次元で切り取り、聴く者に、これが単なるゆったりした曲なだけではないことを直感させる。創りあげられている空間の次元のようなものが今までと違うのだ。本当の芸術家の才能とはこのような曲が書けるかどうかに実はかかっている。アイディアを練ったり思想を訴えたりするのは芸術において決して高度なものではない。本当に高度なのは、こうしたなにげない空間の創造だ。そしてこうした日常を手に入れることが、私たちが人生を味わう一つの秘訣なのである。

 五曲目「小さな幸福」は、比較的わかりやすい歌詞と曲想が一致したフランス大衆好みの曲。アダモによるアレンジは拡張よりも曲想の原型を伝える堅実なもので、よく練られている。作曲はBelle tu me tues Quand d’un air calin のところだけにわかに調性を変えメロディーは跳ね上がる。この飛躍は歌詞内容を精確に反映させたもので、アダモの表現能力が(作曲・歌唱の両面において)調性を超えたところにあることの証明である。これだけの内容を持ちながら、このアルバムの中では標準的なできばえである。

 六曲目の「時は過ぎていく」は、これも優れた標準的作品。歌詞もよくできている。

 B面の一曲目「逆さまの世界(三幕のコメディー)」は実験的な試みの作品で、この面に5曲しか入っていないのは、この曲が6分14秒とかなり長いためである。しかし、この種の作品によく見うけられる音楽的な無理そして冗長さはまったくない。(このことは、70年代のロック・シーンにおける、アーティスト自称「実験的作品」群の目を覆うような有様を知れば、さらに実感できるだろう。つまり、これだけでもすごいことなのである)。

 二曲目の「空が君を恋したら」もまたA3、A4と並ぶ傑作で、すでに評論「三拍子のアダモ」で分析をしているが、大変な傑作である。そこで、ここではそれをそのまま引用したい。もちろん怠惰から引用するわけではない。同じ曲を語るのにそうそう言いたいことが変わるべきではないからだ。(それでも変えてばかりいなければならないとすれば、それはめまぐるしいマスメディアに対応するための単なるビジネスの場合である。)

 「二人のロマン」という高い峰を体験した後、私たちは再びそれを上回る傑作に出会うことになる。それが「空が君を恋したら」である。この曲は「二人のロマン」よりもさらにダイナミックな性質を備えている。アレンジは多彩で象徴に満ちあふれ、何かに酔いしれたような高揚というよりは、さらに動的で男性的である。この曲のタイムは三分ちょうどであるが時間はあっという間にすぎる。中間部は短調に変わる。その一瞬一瞬の変化が息をのむように進行し、ともすればごてごてになりがちなこの種のアレンジを克服している。ピアノ、女声、ストリングスといった音が代わる代わる顔を出すが、それらはアダモ作品の多様な象徴性の枝葉となってのびてゆく。アダモの歌声は彼らすべてをひきつれて飛翔する。たとえば、ストリングス。これはたしかに「空」である。それは、人間の心に潜むちっぽけな思惑と関係ないところでまっすぐに広がってゆく。そして最終部分では、アダモの歌声自体と対照するメロディーをかなで、対位法的に展開する。また、(手法それ自体は平凡で、よくあるものであるはずの)最終コーラスの半音上昇は激烈な効果を生む。それは魂の高揚が必然的に要求している変化なのだ。(――私はよくビートルズ・ファンの若者・学生たちにジョン・レノンの名曲「ウーマン」と比較対照して聴かせることがある。というのも、この二作品は作品の質もこの上ないほど高く、曲調も異言語文化圏の音楽作品同士としては共通点がある。そして最後の半音移動まで同じなので、ジョン・レノンとアダモの個性の違いの説明の上でおもしろいのだ。しかし、アダモ作品のような激烈な効果はジョン・レノン作品ではありえない。)
 曲調は、
「二人のロマン」のプライドに比較すれば、こちらの方がリラックスしている。そして、聞き手のみなさんは、この曲の三拍子性についてどのように意識されたであろうか。実はこの曲もまた非常に優雅な三拍子なのである。これは歌声である。しかしまたこれは十分にワルツなのである。」

  アダモの歌声は変化に富み、作曲者でなければできない歌唱になっている。特に最後の”Je te garderais”の部分などは絶品である。

 さてB面最初の「逆さまの世界」の最後の一節は”le ciel”(空)という言葉を含み、続いて”SI LE CIEL EST AMOUREUX DE TOI”(が君を恋したら)が続き、さらに次の「ミランドのクリスマス」も”Le ciel se pare de diamants”(はダイアモンドで飾られ)という一節から始まる。これは偶然だろうか。少なくともアダモの想像力の中で何らかの物語的展開があったのではないだろうか。これはさらに次の曲で空をさらに高く飛翔し、月に至るのである。この「ミランドのクリスマス」は音楽的には飛び抜けたものはないが、A2「君はシンデレラじゃない」やA5「時は過ぎていく」などと同様にトータル・アルバムの完成には欠かせない個性を持つ作品である。こうした曲はいつも聴き手の一番の贔屓曲にはなりにくくとも、アルバムに多彩さと複数の視点を与える。聴く者はある時ステレオの前で、曲の奥底にあるものを想像して楽しんだりするものである。メロディーは途中でアダモ得意の短調から同主調長調に転じるパターンで展開する。

次の
「明日は月の上で」も大ヒット曲で輝かしい旋律美を持つ。大ヒット曲というのはすでに何らかの「大衆の顔」のようなものを持ちすぎてしまって良さを実感できにくいということがあるが、この作品も私にとっては少しその気配がある。初めて聴いたときには夢中になるし、今でも優れた曲ではあるに違いないのだが、なかなか陶酔しきれない弱みがあると言っては、批判がすぎるかもしれない。

最後の
「エ・アプレ」は1964年に他の歌手のために作曲されたもので、一聴して他の曲よりも昔の作風であることがわかる。曲は壮大と言うよりも素朴で、メロディーが豊かな映像を伴って外に大きく拡がってゆくような個性を持たない。しかし、アダモは今回のアレンジと歌唱でかなりの部分を補っているものと思われる。

 
「アダモ’70」は、アダモのトータル・アルバムをつくろうという意欲が本格的に結集した最初の作品である。すでにアルバムは単なる「曲集」ではない。単純に良い曲が多いという点で、このアルバムを多くの人が自分の最愛盤にあげても当然である。通常のポピュラー音楽の水準で言えば、これは大アーティストの最高傑作と言ってもはばかりのない内容のものである。しかしアダモは、この後3枚のアルバム(「8枚のアルバム」という言い方もできる)で前人未踏の境地に達してゆく。この作品はその意味では、アダモの精神が高峰にいたる一つの前哨戦の成果であった。


C 1970年45回転盤発表曲(日本盤アルバム「行けよ僕の船」)

 1970年にフランス本国で発表された45回転盤は次の通り。

2月「エ・アプレ」ET APRES/「時は過ぎていく」GAGNER DU TEMPS
4月「懐かしのベル・ダム」LES BELLES DAMES/「結ばれぬ愛の想い出」NOUS N'AVONS JAMAIS PARLE D'AMOUR
6月「行けよ僕の船」VA, MON BATEAU/「われらの夏よ」TIENS VLA L'ETE
10月「さあ、帰っておいで」ALORS, REVIENS-MOI/「いとしのローズ」SOIS HEUREUSE, ROSE

この年は、1月にアルバム「アダモ’70」からのシングルカット「エ・アプレ」「時は過ぎていく」が発売された他は、すべてが傑作である。明るく豊かな豊饒の年である。二つの「エフ・コム・ファム」からもわかるように、アダモ作品のアルバムにおさめられているものは主に秋・冬の雰囲気のものが多く、一方シングル盤で発売されているものは春・夏の気分を表すものが多い。これは一つには彼のオランピアが年末年始の時期に多いからであるが、スタジオ盤に関しても同じ時期に発表されるのが通例になっているためだ。フランスでのアルバムの発売月を一覧にしてみると次のようになる。(タイトル表記は日本盤に準拠)
1月 「オランピア’67」「ひとつぶの涙」「オランピア’69」「アダモ’70」
2月 「プルミエ」
3月 「オランピア’71」
4月
5月
6月 「オランピア’77」
7月
8月
9月 「オランピア’65」「愛はル・シアン」
10月 「メモワール」11月 「ドゥージェム」「セ・マ・ヴィ」
12月 「Chansons Non-Commercials」「愛が帰るとき」「夢の世界」
(不明)「もしも君が...」「サクレ・トワ」

 このように77年のオランピア盤(4月13日から30日のステージ)を除けば4月から8月までの間はまったくアルバムが発表されていないのがわかる。シングル盤については、アルバムやオランピアで話題になったものを直後に発売したりするケースなども入れると、有意なデータとは言えないので割愛する。つまり全月に散らばっているのだ。当然ながら、アルバム制作とは独立して制作された作品がシングル盤で発表されることが、夏の時期には多くなる。もちろん、ディスク自体が一年のどの時期に発表されようが、肝心の作品自体がその季節の気分や雰囲気を表しているものでなければ分析の意味はないのだが、アダモ作品の場合は詩のみならず曲自体も非常に鮮やかな季節感にあふれていることが多い。たとえば、今回たまたま発表月が特定できなかった二つのアルバム「もしも君が...」「サクレ・トワ」は、歌詞内容や曲想からおおかた秋か冬と特に特定できる作品である。(詳しくは各アルバムの解説を参照)。

 これらのことから、アダモのシングル盤のみの発表の作品がしばしば夏の気分を持つのも当然のことでなのである。特に68年8月発表の「愛のワルツ」「海に残る想い出」「エフ・コム・ファム」のおさめられたスーパー45回転盤からは明らかに夏の気分を意識した組み合わせのものも発表し始めている。(また66年6月発表の四曲組の中の「バカンスの太陽」もそれと意識したものかもしれないが、こちらは四曲中一曲だけである。)そして、70年は「アダモ’70」にすでにおさめられた「エ・アプレ」「時は過ぎていく」の1月発売のシングルを除けば、4月から10月にかけて3枚の極上シングル盤が生まれている。どこが「極上」なのかというと、3枚が3枚ともA面もB面もまさに第一級の内容を持っているからである。日本では、「アダモ’70」以降に発表されたこの年のこの六曲とアダモ監督・主演の映画「ひなげしの島」から翌年シングルカットされることになる二曲と、前年からこの年にかけて英米で録音された3曲(いずれも原曲は既発表曲)が加えられて、「行けよ、僕の船」というタイトルでアルバムとして発売されている。このアルバムは1970年のアダモの活動をほとんどくまなく網羅したもので、日本のレコード会社のアダモへの慎重な態度がうかがわれる。
 これら6曲を解説したい。どれも南欧のバカンスの一情景を想わせる、明るいリラックスした作風である。

 
「懐かしのベル・ダム」はユーモアに富んだ歌詞を持ちながらも音楽的な輝きと情景の美しさを失わない佳曲。それにしてもこの曲のB曲は独特のあたたかい南欧の夕暮れのような美しさを持っている。曲は少しばかり饒舌だが、それでも音楽を損なうというほどのものではない。しかし、この雰囲気のまま一枚アルバムを作ってくれても良かったのにとも思わざるを得ない素晴らしさだ。

 「結ばれぬ愛の想い出」
は、「懐かしのベル・ダム」のムードをさらに押し進めた作品。濡れるようなギターのイントロ、そしてあたたかいムードに満ちた最後のフェイド・アウトに至るまで素晴らしい。

 
「行けよ僕の船」は、 大ヒット曲だが実質も高い。この曲は歌詞内容からもそのムードからも同年発表の映画「ひなげしの島」と重なる部分が多い。意志的で力強い曲だが、70年のこの作品ではまだ、そこに夢見がちな情景描写が先行し、真の大家としてのベートーヴェン的な覇気を見せるまでにはあと二年ほど待たなければならない。(この方面の完成された代表作は「愛と命」である。)最後のドラムスの「サウンド・オン・サウンド」も効果が大きい。

 「われらの夏よ」TIENS VLA L'ETE
は、 「懐かしのベル・ダム」と同系列の明るいアップテンポの作品だが、あちらで聴かれたような多少の饒舌さはすでにそぎ落とされ、さらにしまりのある作品になっている。同じ夏のバカンスへの想いを表した「バカンスの太陽」と比較して聴いてみると面白いだろう。アレンジも優れていて、構成も(いつものことながら)メロディーを最大限に活かすように組まれている。私は高く評価している作品である。

 
「さあ、帰っておいで」は、真の傑作。非常に豊かな作品で、それも表面的なメロディーの美しさからではなく、アダモの人間性をそのまま反映させたような内実のある作品になっている。抜群にうまい作曲技術より、そしてバック・コーラスの美しさよりも、この作曲家の持つ感性の深さが先行している。詳しくは「三拍子のアダモ」を参照されたい。

 
「いとしのローズ」は、軽いポップ・ソングの体裁をもっているが、実に手際良く書かれていて、実質は高い。優れたラヴ・ソングである。メロディーの単純さを最大限に活かした作品で、そのことは、同じメロディーが再び繰り返されるときに得られる(まだ続いている、まだ続いてほしいというような)不思議な実感からもよくわかる。
 これら6曲は、発表が後になるほど饒舌さがなくなり、短期間でのアダモの進歩の足跡を見ることができる。どれか一曲といえば、私は迷わず
「さあ、帰っておいで」を選ぶ。音楽的にはこれが特に傑作である。しかし残りの曲は多くの人がその人の音楽体験のあり方によってばらばらの選択をしても不思議はない。


D 「ひなげしの島」の周辺

 1970年は、実はもう一つの大きな音楽的成果があった。それが映画「ひなげしの島」のサウンド・トラック盤である。この盤はずっと後になって日本で発売されたのみである。(この映画の中で使われた「愛の忘却」「ヌー」は71年1月に本国でもシングル盤として発売されている。)多くの優れてはいるが特筆するほどの形をなしていない付随音楽を除いて、アダモがヴォーカルをとって独立した曲となっているのは、次の5曲。
「夢の果てに」LE GENERIQUE
「夢の蝶々」PAPILLONS
「愛の忘却」ET T'OUBLIER
「ヌー」NOUS
「砂のお城」NE FILLE, UNE FLEUR

 「夢の果てに」は可憐な導入曲だが、それ以上ではない。しかし、ねらいがはずれているとか無理があるとかということがなく、肩の力が抜けている、すなわち軽い良さを持つ曲である。

「夢の蝶々」は力強いヴォーカルを中心とした秀作で、アルバムでは途中でフェイド・アウトし映画中の会話が挿入され、またフェイド・インしてしばらく奏でられ、最後に再びフェイド・アウトするというおさめられ方をしているのが残念である。中間が消されずに、またフェイド・アウトであれ何であれ音楽的にきちんとした終始部がついていれば、「僕の自由」「愛と命」につながる、アダモの主張型作品の傑作になっていたかもしれない。

「愛の忘却」は、同主調で短調から長調に転ずるパターンを得意とした当時のアダモの作風の逆を行って長調から短調へと転ずる。そのためか、曲想のまとめ方として今ひとつ不完全燃焼の感を抱くのは私だけだろうか。前半の長調部分の運び方がうまいだけにそう感じさせる。またこの時期のアダモである――アレンジなども完成度は高いのだが。

「ヌー」は、平凡なラヴ・ソングで音楽に発展性の聴かれない曲である。「愛の忘却」同様、どこといって大きな欠点はないが、長所もない。訴えたい内容がなんら強い説得力を持っていない。この二曲にしては70年の彼の輝かしいキャリアの中で多少中だるみの印象を禁じ得ないものである。

「砂のお城」は傑作で、アダモの才能の美質の一つが非常に端的にあらわれた作品。映画の内容にあわせたためか、詩よりも曲が優れている。(曲が優れているだけにもっと良い歌詞をつけたいと思ってしまう。)アレンジは映画用に徹したのかそれほどの厚みがない。しかしそれでも音楽自体は優秀である。メロディーは、イントロの部分からすでに非常にチャーミングで生命力にあふれ、可憐な女声部分を経て、その後それを打ち消すような自信に満ちた強力な展開をする。芸術家としてこのような曲想を書く気分になったこのアダモという人はなんと幸福なのだろう。彼は自信にあふれ、胸には大きな愛に満ちている。まさに隠れた名曲である。このアルバムは映画の会話中心からの抜粋シーンが多い。それだけに、この曲がはじまり途中からバックのストリングスの下降旋律が流れはじめると、それは、あたかもここで復活したかのようなアダモの歌声に声援を送り、祝福しているかのように聞こえてくるのである。こんな響きを最初に聴いたのは、いつだっただろうか――そうだ、それは「ふたりのロマン」から始まったのだ。アダモがひとたび力を取り戻せば、世界は愛と心の豊かさに彩られ廻りはじめる。メロディーは美しいロンドとなって、いつまでも続いていてほしいと思わせる。一ファンとしてそんな風に自然と胸を張ってしまうような作品である。