プロム主義だ!

     


 「プロム主義だ」を始める前に、もう一つ特集する予定だったシリーズ「早 く人間になりたい!」を書き始めてしまったので、こちらを先に連載します。あ しからず、すみません。

(またPart2もできました)


→プロム主義だ!本編はここをclick!



          シリーズ

はやく人間になりたい!

1.「憎まれっ子世にはばかる」の論理
2.「人間は嘘の量が同じ相手としかつきあわない」の法則
3.ストレス保存の法則
4.人助けの論理
5.「天才」って言葉は勘弁してくれ!

6.「私は今まで何もわるいことをしていません」と言うことなかれ

7.現代の最保守、ロッカーたち

8.議論のタブー

9.けんか両成敗ってのはなんだ?

10.写真を見て「優しそうな人」と考えるのは?

11.人間は外見である。

12.個性的な人・人間的な人

13.老人と若者が対立したときには若者が正しいに決まっている
(または、子供は嘘つきである)。

14.愛と性だけは学ばないと分からない(プロム主義前宣伝)

15.気が小さくない男は存在しない

16.人類はみな兄弟ではない in Japan.

17.名詞としての「愛」、動詞としての「愛」

18.正義の怒りをもって人に注意をしてはいけない。

19. 「薔薇」という字が書ける人を尊敬していてはいけない。

20.絶対という言葉の責任


 「人間は神になろうとしなければ人間にもなれない」
と言ったのはポール・ヴァレリですが、ある意味「人間」への道は遠く長いの だ。別に瞑想でもして禁欲的な聖人になれという話じゃないよ。でもあまりに驚 かされる人間の例って多すぎるよね。同じ人間としての反省の意味も込めて、こ のシリーズをおくります。
 「はやく人間になりたい!」という言葉は実際には、テレビアニメ「妖怪人間ベム」中の名文句だ。(この作品はきりりと引き締まった内容を持つ作品だ。たしか 記憶によると最終的に人間になれなかったと思うけど、そんなところも良くでき ているね。女の妖怪ベラはしし座かいて座みたいだな。)このアニメなど見てい ると、「人間なんてそんなに立派なもんじゃないよ、残念だけど」なんて言葉も 出そうになってしまうね。妖怪人間から見て恥ずかしくない人間になりたいですね。


1.「憎まれっ子世にはばかる」の論理


「憎まれっ子世にはばかる」というのはいつの時代にも正しいのだ。というの も「憎みっ子」は決して世にはばからないからである。これはきわめて正当な論理だ。「出る杭は打たれる」というのも 本当だけれども「出過ぎた杭は打たれない」というのも本当だろう。いずれにし ても憎む側・打つ側にはなりたくないね。TVででかい態度をしているタレント やケーハクなネーチャンも大いに結構。(それを見て批判している人、あんたに そんなこと言う権利ないよ!)少なくとも彼らは好きでそれをやっているのだか ら、良いのである。それよりも、他人の不幸や軽薄さを笑って、密かにその失敗 をほくそ笑んでいる奴らの方がよっぽど下司だぜ。

 ある時、高級愛車に傷を付けられたある友達に、私はこう言った。「人生で、車を傷つけられる側に立てて、良かったな」と。良い車に乗っている人間と乗っていない人間の間にはなんら差はないけれど、 良い車を傷つけられた人間と傷つけた人間では大差がある。傷つける側はベンツなりボルボなりに絶対自分が乗れないという立場から行動 を起こしているのだし、たかが車である。成金だろうが、無駄遣いだろうが、乗 りたい車に乗ったならそれはそれで良いのである。憎んでる側は、たかが車とは 思っていないから、車ごときが人生の重大事である。このような人には、進化は むずかしいだろう。このようにして憎みっ子は世にはばかれない。そして「憎ま れっ子、世にはばかる」のである。

 もし、あなたが自分では絶対正しいと思うことをして、人から憎まれたのな ら、それはあなたの勲章だ。(天才と言われる人は皆同じ道を歩んできた。)私の経験では、人生にお ける飛躍となる大きなステップのおとずれる直前には、必ずひと騒ぎ起きる。お そらく自分のレベルのようなものが上がってくると今までいた空間と不調和を起 こし、つまり今までいた空間の方が低レベルということになってしまい、本人の 好むと好まざるとに関わらず、自動的に摩擦を招いてしまうのだ。だから、もし あなたが一生懸命やっていて、その結果、人にとやかく言われたなら、それは何 はともあれ勲章だ。がんばって憎まれ続けてくれ。そして、憎みっ子の方々、自分の人生をもっと大切にして、はやく人間になり たい!
 


2.「人間は嘘の量が同じ相手としかつきあわない」の法則

 レベルって言葉はあまり適切ではないとは思うけれど、やはり人間には多岐 にわたる様々なステップのようなものがあって、どんなに条件がそろっていても つきあわない時はつきあわない。人は、この目に見えないレベルのようなもので 、自分を他でもない自分自身で仕分けしているのである。

 だから、たとえば、前回の車の話じゃないけど、良いものを見て(高級車が よいものかどうかはまた別の話だけど、)「あ、良いな」と思う人と「こんなの 嘘くせぇー」と思う人とかならずいる。できればなるべく多くの事について「あ 、良いな」と感じたいものだね。(だいたい幼いときはみんなそうだったじゃな いか!世の中素直が一番だよ。)
 俺があっちこっちで「こんな風になれたら良いな」と夢を話すと、必ず、こ の二派に分かれるわけで、昔はさんざん馬鹿にされたものだった。ところがそれ がある時期から「おまえは良いよな。そんなこと言えて・・・」にかわりはじめ た。やれやれ人間ってやつは・・・と思うこの頃である。こちらはなんにも変わ ってないのにね。
 
 特に人生の夢の話でなくても、恋愛などでも同じである。「君を愛してる」 と言ってもどうしてもそれを受けきれない人もいる。だからそうやってレベルの 同じもの同士がつきあうようにできているらしい。どんなに趣味があっても互い にどんなに条件が良くてもそれだけでは決してつきあうことはないのも、みなさ んのご存じの通り。感覚が逆らうからね。あえて一種の基準になるものを提示す るなら「嘘をついている量」ではなかろうか。
 これはかなり確からしいと思われる。「そんなことないよー。私、複数の人とうまくやってるもん。男の人って私の かわいい嘘にイチコロだもん!」なんてネーチャンはよくいるが、彼女たちは自分たちがなにを言っているのか すらもわかっていないようだ。この場合可能性はいくつかにわけられる。
1.男が本当に気がつかない場合。
2.男がそのときは気がつかないがうちへ帰ってみて「これはおかしいぞ」と 思う場合。
   a.気がついて翌日けんかになる
   b.気がついて、この程度の女かと黙っている
   c.気がつき方が無意識的な場合
3.男が女の嘘を気がついていてつきあっている場合。
   a.気がついていて許している
   b.気がついていてそれを利用している

 1の場合、そんな嘘にも気がつかない、なにもわからない男とつきあっても しょうがない。これはかなり多い。

 2-aの場合、かなり誠実だが、このような純情な男は本能的にこのタイプの 女を避ける、というよりもこのタイプの女は自分の嘘が通じない男を本能的に避 けるので、意外にこのケースは少ない。
 2-bのケースはそれなりに多い、女性の色香に迷ってそのときはだまされる が大抵後で気がつくものである。女の方はばれてないと思っているから、うまく いってるつもりでいる。男の方は、今別れてもストレスたまるし、もうちょっと マシなのが出るまで我慢しようと思っている。
 2-cの場合が圧倒的に多い。なんだか変だ変だと思っているうちに、歯車が 合わなくなり結局ささいなことから別れようと言うことになる。うまくいかない 恋愛のほとんどがこの範疇にはいると言っても過言ではない。お互いに無意識的 でも感覚は正直だ。好きなんだから相手の言葉をそのまま信じようとするが、そ れがなぜか不思議とうまくいかない。自分といないときの恋人の表情を想像しよ うとするが、どうもうまくいかない。こうした諸現象から始まる。

 3-aは、希少でもなんでもなく、それなりの量存在しているが、簡単に言う と彼女の嘘に見合うだけの感覚的代償がある場合である。表面が可愛いとか、他 の面で非常に良い性質を先に見つけてしまったとかである。こうして許している と、なぜか女の方にストレスがたまるらしく、「あんた、心の中で思っている本 当のこと、言いなさいよ」的状況になる。どちらかというと「それはこっちのセ リフだ」と思うのだけれど、男の側で我慢していることが何らかの形で女の側に 見えてしまっていることから起きる。
 と、まあこのようなわけで、ここでも「ストレス保存の法則」は働いている。「ストレス保存の法則」は応用自在の役に立つ法則だから、次 回詳しく語ろう。
 3-bは、いろいろなパターンがある。結婚してみたらいきなり女中扱いにさ れるか、いずれ香港にでも売り飛ばされるか、それはさまざまなので、楽しみに 待つように。
 いずれにせよ、嘘をつきまくっていた人間の末路はみんな同じようなもので 、「あたしってなぜか男運がないのよねー、先生もう一回占って」的パターンで来るのである。残念ながら西洋占星学では解決できないね。

 しかし、こうしたパターンすべてを超越してうまくいってしまうパターンはたった一つ 、それは互いの嘘の量が一致している場合だ。お互いの量がだいたい一致していると、とにかく違和感がない。夢を語るの も日常に埋没するのもすべて同じ次元でいくからお互いにストレスがないのだろ う。

 今回は図らずも女が嘘をつくというシチュエーションで語ってしまったが、 逆の場合だってまったく同じ(だいたい同じ)である。またこれに準じる基準と しては、「人は悪口の量が同じ人としかつきあわない」というのもある。(しか しこの公式が成立する諸条件を説明するにはちょっと手間がかかるので後に回そ う。)
 ああ早く人間になりたい!
 

3.ストレス保存の法則


 よく結婚を夢見てる女の子が、結婚数年目の先輩の家におじゃましたりした あとにきかれる話だが、「あそこの夫婦は割れ鍋に綴じ蓋(*)で本当に本当にう まくいってるみたい」などと言って、話してくれる例である。

[(*)「割れ鍋に綴じ蓋」=(われなべにとじぶた)本来は欠点のあるもの同士 がその欠点をお互いにうまくカバーしあっている人間関係を指しているのだが、 今日の若者の間ではしばしば自分のわがままの通る相手を見つけるための口実語 となっている。)]


 「私の先輩って、旦那さんにキツいひとで、本当にひどいこと言ってるのよ 。たとえば「あんた童貞だったくせに」とか「どうしてそうトロいの」とか人前 で言っちゃうの、でもね旦那さんが大きな人で、そんなこと言われても平気で優しいの。」とかと、のたもうてくれるわけ ですが、実際のところ、もしそこに他に一定の代償がない限り、確実に相手方( この場合は旦那の方)にストレスはかかっていて、これは遅かれ早かれ必ず露呈 することになる。日本人は人の個性をあまりにアニメのキャラクターみたいにと らえすぎる。人間一人というのは完成されバランスのとれた宇宙のようなもので ある。その中には必ず良いところも悪いところもある。ひどいことを言われて喜 んでいる人間なんて絶対にいない。もし「平気だよ」なんて言うやつが本当にい たら、かなりのワルである。だからこういう良い旦那さんに限って中年期にいき なり派手な浮気をして家庭が崩壊したりするわけなのだ。「昔はとってもいい人 だったのに」などと言うが、あんたいったい「いい人」ってどういう意味で使ってるんだい?要するにあんたに都合のいい人って意味だろう?だいたい、例の宗教団体関係 事件のメンバーにしたって、元はみんな「いい人」だったじゃないか。この「い い人」というのはかなりのくせもので、日本においては他人にとって都合のいい 人という意味になりかねない。それが古き良き時代ならともかく、これだけ多様 化し、本来個人主義がもっと発達しなければいけない状況においては、しばしば 「いい人」というのは自分のない人である。またこういう人はおだてられるとま すます「いい人」になるから面倒だ。人に良くするのも結構だが、まず自分を良 くしてほしいものですね。世の中には、迷惑かけまくりの偏屈親父とかなんにも 考えてないガールとか色々いるわけだが、それでもその人たちが人として悪い人 かどうかはまったく別の問題である。まして自分が良くされたからといってその人を「いい人だ」なんて言うのは勘 弁してほしい。こうしたとんだ利己主義から、小さな親切の繰り返しによるこそくな人格が寄 り集まりシマを作って、違和感のある人間を排斥するといういつもながらの縮図 ができるのである。

 話を戻そう。要するに人間は神ではないわけですから、表面だけいい人をやっていると必ずどこかに 負担がかかり、ストレスとなって、いずれは爆発するわけです。とんだ自己欺瞞ですね。(「私はいい人です」というのはしばしば「私はど んな女でも来てくれれば抱けます」というのに等しい。この状況をなんとなく察 知し、逃れようとする中途半端ガールたちは、とりあえずこの問題をクリアして いるかに見える「悪い男」に走るのだが、実体験後、世の中そんなに甘くはない ことを悟る。ああ、男女交際文化の荒廃。 =これは「プロム主義」のテーマだ な。)

 ところで、実際のところ、このお話の本当の被害者は、その「いい人」であ る旦那の、奥さんの方かもしれない。彼女の方は「いい人」的事なかれ主義に満 たされないが故に罵詈雑言を吐いてるわけで、いわば、裕福で人が良いばかりの 旦那に追いつめられて毒をあおった「ボヴァリー夫人」状態である。日頃の生活の中で感覚的でないこと、ジェネラルないい人になってし まうということは、その相手に対して自分特有の反応を返していないことにもな りかねないので、一人でテレビでも見続けるのと同じ状況である。こうなると特 定の相手はチャンネルが変えられない分だけ始末が悪い。(このチャンネルをた くさん用意しようとして、アッシーだのメッシーだのということになるのだが、 チャンネルが増えてもテレビはテレビであることに気がつかないのは、まったく おろかしいね。もうみんな情報量の多さを持て余してるんだね。)

 「あんな立派な先生だったの女子生徒にいたずらしちゃって」
とか「お金のことはかまわず人のために尽くすばかりの弁護士さんだったのに 」といわれてしまうケースは、周りから立派だ立派だと無言のうちに言われて育 ち、自分の個性とは関係なく「立派な人」の鋳型にはめられてしまった人の悲劇 なわけです。このように「いい人」などと人に言われたときは、自分がどのよう に「都合のいい人」に成り下がっているかよく警戒してみるべきで、「あなたっていい人ね」等のセリフを言われたときには、「なんだか気持ち悪いぞ」と感じるくらいが正常である。だってこっちは勝手に好きでやってるだけだか らね。特に自分の好きな女から言われたりしたら最悪だね。「あんたなんか大嫌い」とでも言われた方がずっと良いに決まっている。

 結局、このストレスを発散するには自分の好きなことをするしかないわけで 、「いい人」というのは自分の感性を無視して他人の基準でしか自分を作ってい ないことの証明という場合もあり、つまりは事なかれ主義の教育の結果なわけで す。(そしてこのいい人集団がしばしばいじめ問題等の大変な根元となるわけで すが、これもいつか話しましょう。)だから良い人になるかどうかはまあ別にし ても、少しは人間らしくなるためには、他人がなんと言おうが自分が好きなもの を見つけ、それ中心に人生を見つめるのが一番早いのでしょうね。
 はやく人間になりたいものです。


4.人助けの論理

 たとえば、あなたが今就職活動真っ最中で、いそいでその会社の面接試験に 向かう途中だったとする。すると、通りがかった橋の川の下から誰かの叫び声が 聞こえる。おぼれかけたおじさんが助けを求めているのだ。(よくまんがやドラ マにある典型的シチュエーションだね)。結局あなたは人生最大のチャンスを棒 に振って、このおっさんを助けてしまうわけだが、このときのあなたの心の中は 次のようなものかもしれない。「この野郎よりによってこんな時におぼれやがって、おかげで俺の人生とんだ 損失だ」等々・・。まったくその通り。でも助けてしまう。

 これが人助けである。人間は人間であって、神でもスーパーマンでもないの だからにして、個として持っているもの、持ちつつあるものを失うのはいやなの である。後にこのおっさんから「あなたは命の恩人です。本当にありがとうござ いました」などと言われれば内心気分はいいのだが、そんなことは分かり切った ことだし、「悪いけど、あんたのために助けたんじゃないんだよ、助ける立場にいたから助けたのかもしれないんだよ」位のことは言いたくなる 。
 俺だって35年も生きてれば、人の命を助けたことなんか数回ある。おぼれそ うになった女の子とかね。たとえばそのときは海に遊びに来ててひまだったから 、意識すらしなかったけれど、どちらにしても「いいや、当然のことをしたまでです、はっはっは!」なんて言う気になるか い?俺なんか恥ずかしくて冗談でも言えないね。人と助け合うのはあまりに当たり前のことすぎて(だいたい五体満足に今まで 生きていること自体奇跡みたいなもんだからな)、どうしてそんなことにとりた てて善行のような意識をしなければならないのか。そんなことで就職に失敗した って、人生の損失でもなんでもないよ。でも目の前でそれが自分に起きればムカ ッ腹立つに決まってるし、それはそれで頭に来るのだ。子育てなんかそれに似て るよね。子供というのは真夜中には泣き叫ぶわ、最もさわってほしくない大事な 仕事の資料に限ってめちゃめちゃにいたずらするわで、「テメエ、本当に悪魔だな」と思うわけだが、それでも死んでしまうと困るの で育てるのである。だから俺は別に子供に老後の面倒を見てもらおうとは思っていないし、子供の 方だってひょっとしたら、太宰治じゃないけど、「生まれてスミマセン」なんて 思ってるかもしれないしね。人間やっぱり飯を食って排泄行為をしなきゃ(つま りそのような、一見人の仕事の時間を食いつぶす無駄っぽいことをしないと)生 きていけないんだし、それは生きている我々に課せられた宿題のようなもので、 そう考えれば「当然のことをしたまでです、はっはっはっ」なんてちょっと冗談 きついよね。
 子供が生まれたら言ってやろうかな。「当然のことをしたまでです、はっは っはっ」。
 まったくやってられないよね、人生って。ああ、早く人間になりたい。

5.「天才」って言葉は勘弁してくれ!


 ここのところ、大変なモーツァルト・ブームである。本当にとんでもない作 品を残した人なので、別に彼がいわゆる「天才」とされることにはなんの抵抗も ないのだが、ただ、この作曲家に関する大抵の著作は「天使」がどうのこうのと か、「神のめでし人」だのという、とんでもない美辞麗句のオン・パレードであ るのはたまらない。最高の天才だから何についても褒めまくっていれば、言って いる自分たちの株が上がるだろうとでも考えているかのようだ。そんな風に考え ているのならまだたちはよいのだが、実のところ「ああ、私はなんでこんなにモ ーツァルトが好きなんだろう」的文章に遭遇すると(またこれが実に多い)、な んだか「かわいそうな奴ら」という気分にもなってくる。もともと「天才」という言葉は凡才のためのものである。
 「おれは凡才じゃない」などと言いたいのではない。ただ、たいていの人は目の前に自分より圧倒的に優れた人間が存在するのを認めるに は卑屈すぎるので、故人や別世界の人を称して「天才」として憂さを晴らしているのである 。したがって、芸術活動やメディア上のパフォーマンスに対して「天才」を連呼 する人間に限って、目の前のみすぼらしい若者がどんなに優れた才能を見せても 、その存在には無邪気に気がつかないのである。つまりは彼らにとっての「天才」とは「別世界の人」という意味であって、そんな奴が前触れなしに彼ら自身の目の前に現れるということは、 絶対にあってはいけないことなのである。だからクラッシック音楽は好きだけれ ど、ポピュラー音楽は馬鹿にするなどというひどくかたよった人間が現れてくる 。私に言わせればこのような人たちは、自分たちの現実には「天才」は現れない という信仰を持った人たちであり、自分たちだけの力では天才を発掘できない人 々である。(できなくたって良いんだけど、ヒクツはまずいよね。)
 また才能というものが、なんの意識もせずに降ってわいたように心に浮かぶものだ などと考えるのは最低である。芸術やその他の分野の優れた能力の持ち主が自分の能力を自慢げに語るのは まだ許せる(私個人としては、そのような発言はむしろなんだかかわいらしく感 じてしまう)にしても、「凄いことは努力なしに行われる」という発想は、ひどい。この点ではたしかに「天才」という言葉は凡才のものかもしれない。しかもこ の場合の凡才とは「普通の人」という意味ではない。「努力をしたがらない人」 という意味である。アーティストのインタビュー等で「詩と曲がいつの間にか頭 に浮かんでくるのです」という言い方をする人がいるが、そういう人はまず大し た才能は持っていないと考えて良い。「安易に芸術活動をして、今のところうま くいっています」と言っているだけである。創作の意識と無意識の両部分がいつ も調和してでてくるということは、その人が現実に対して疑問を持っていないと いうことの証明であり、いわば流行作家の証明なのだ。
 最近の研究によると現実のモーツァルトは、当時多かった先天性梅毒と闘い 常に生死の間をさまよい、この病気と天然痘の跡によってザルツブルグの人々か ら敬遠されるような容姿をした人物であったらしい。また、音楽以外の知性にも 優れ、家計もきちんと管理していたとも言われている。(詳しくは田中重弘著「モーツァルト・ノンフィクション」(文芸春秋)参照)彼の素晴らしかったところは、こうした病との戦いをほとんどまったく その芸術作品に反映させなかった点である。--さあ、どうですか、彼こそが「神 のめでし人」ですよ。

 苦しいときにモーツァルトやヴェルディの音楽は本当に励みになる。私にと っては、かならずしもベートーヴェンはそうではない。(彼は現実を変えようと 努力はするが、どうしようもない現実に対する意識というものは少し弱い。つま り無邪気で健康的なのだ。)彼に比べれば、前者の音楽群は超然と現実を無視す る。その作風は「人間は人間だから偉いのだ」とでも言わんばかりである。

 天才云々と言う時には、今まさに目の前にいる、その不器用な人こそが天才かもしれないという自負心 を、時にはもちましょうね。(その人が天才でなくても良いんです。その態度を通してあなたが自分の中に 見いだすものが重要なのです。)さあ、みんなで早く人間になりましょう。

6.「私は今まで何も悪い事をしてません」
  と言うことなかれ。

 良い事悪い事を法律や社会全体の価値観でしかとらえられない人間が多すぎ て、その結果がこの今の日本の廃退を招いているわけで、細かく論じてみても良 いのだが、このページはまずエンタテイメントでありたいので、その説明に恰好 の人物を取り上げてみたいと思う。それはビ☆トた☆し氏ですが、私は別に彼の ファンでも何でもなく、ただここで取り上げるのに絶好なので引用させていただ くわけです。彼は大分前に、ある編集社へのなぐり込み事件を引き起こし、私は この会社(社名も忘れてしまった)が実際酷いことをしたのかどうかもまったく 知らない。ただ、氏がお笑い界の雄としてまさに油が乗り始めた時期にあのよう な事件を自ら引き起こしたという事実が重要なわけで、私としては、彼に対する 人格的信用のようなものは一気に増したのである。というのも、彼くらいの知性 を持っていれば、あのような時期にあのような事件を起こせばせっかく得た地位 がすべてふいになることくらいわかっていたはずで、それを押しての行動であれ ば、それはすなわち法律的正義・悪の問題以上に彼にとって重要な、個人としての正義の問題がそこにあったからだ。つまりはおそらく愛する者のために戦ったとしか、私には見えなかっ た。社会的に悪いことは悪いことなんだから、本人もちゃんと刑は受けたわけだ し、この問題はこの問題でクリアである。「こりゃひどい」と思ったのは某新聞 の社説で、ひたすら「いくら人気があるからってそんなことはゆるされない」調 の内容だった。大のおとなが「あ、法律を破った!いけないんだヨー」的な発言しかできない のは本当に情けないと思った。

 皆さんは、こんな経験はないだろうか?たとえば小学校の時、要領の良い奴 らがいて、そいつらが集団でちくちくとイジメてくる。そしてこちらがやりかえ すと「あ、暴力を振るったな」と大騒ぎをする。たまたま立場の弱い正直者が損 をするというあのパターンである。氏の事件がこれとどこまで同じものだったか などはわからない。しかし力関係から考えると氏の精神状態はかなりそれに近い 状況だっただろう。繰り返し言っておくが、私は氏のファンでもなんでもない。 ただ、皆さんと一緒に考える材料に彼を使わせてもらっているだけだ。
 人がそれなりのポリシーを持って生きていれば、必ず現実と激しい不調和を起 こす一瞬が来る。(それも何度もである。)そんなとき、自分の目の前の欲得や社会通念よりも 、自分の信じるものや愛する人のために戦える人間であってほしいと思うし、ま たそういう人を理解できる人間であってほしい。(これがみんなできないから、 「危機管理がなってない」などと言われてしまうのだ。)

 さて、ここで氏をとりあげたのは、彼のもう一つのエピソードのためだ。あ る女優との不倫の噂が流れたときに、女性リポーターの一人が「悪い事している と思いませんか」と聞いたのに対し、彼は「じゃああなたは今までに何もしてな いんですか」と聞き返した。すると「ええ、私は特に何も悪いことはしてません」という内容のことを彼女は言ったのだが、(ここからの彼の剣幕はすさまじか ったのかテレビではカットされていたが)とにかく烈火のごとくののしっている ようだった。私だってそのぐらい怒ると思う。自分が何も悪い事していませんなんて平然と言えるなんて本当にとんでもないですね。そういう奴が一番ひどいことをしているのですよ。たとえばクラスで イジメにあっている子がいても、あとで優しい言葉一つもかけず(この一言でそ の人は救われる)、「何もなかったよね」的涼しい顔をして生きている人間でし ょうね。(私は「友達を助けなければいけない」などといっているのではない。 まず自分の身を守りましょう。)人がまともに生きていればどうしても他の人を傷つけてしまう瞬間がある。もし自分が、そんなことに気がつかずに大人になってしまっていたら、かなり 恥ずかしい気がすると思う。

 これも少し前のデータで恐縮だが、アンケートによれば日本人のほとんどが 中流意識を持っているという記事を読んだことがある。当時日本人の平均年収は1200 万円くらいだった。中流だといっている人のほとんどが平均年収に到達してい ないという変な話である。「自分はふつう」「自分はみんなと同じ」--こうした 飼い慣らされた意識ぐらい、搾取する側にとって都合の良いものはないだろう。 (お互いにつまらない見栄を張ってつまらないところでお金を使ってくれるから 、企業としては大助かりだ。)テレビ番組で言えば「サザエさん」がその良い例だろう。みんな良い人・良い子で、お父さんは雷オヤジだが、ド ラマには決して大事件は起きない。親らしい親、子供らしい子供の集合体である 。(旦那様が養子であるところなどは「寅さん」と共通している。)とにかく個 人主義的戦闘態勢がなく、ひたすら保守である。そしてこのサザエさん文化ど真 ん中で育った世代の子供たちが、親たちの求める子供らしさの鋳型にはまること ができずに現実とのギャップに悩み、自殺してしまったりするわけだ。(これは プロム主義で詳しく語ろう。)本当にあんな風に平和が続いていけばそれはそれ で一つの理想だろうし、私自身としてはこの番組はあくまで頑固に続いていって ほしいと思っている。(文化というものは多少我々民衆が乱れても頑固に一つの 視点を守ってくれなければいけない。でなければただの流行に堕してしまう。)

 しかし、今早急に私たちが考えなければいけないのは自分の生き方を見つけ ることだ。私の言っている「生き方」とは「ライフスタイル」のことではない。 (これを見つけるのは日本人は得意だ。)何事についても即座に人間として感覚 的判断が下せるように自分の感じ方を鍛えることだ。多くの若者たちがこれを求 めて、瞑想したり心理学に走ったりするが、無駄とは言わないまでもあまり効果 があるとは思えない。彼らこそとんだマニュアル君である。仮に、誰かが他の人 と同じ生き方・何も悪いことをしていない生き方をしていても、それが自分の生 き方だとわかるということはあるだろう。しかし、「人と同じです」「何も悪い ことはしていません」と平気で言える精神状態からは、自分の生き方は決して生 まれない。

人と同じ生き方ができたならば、それはまったく素敵なことだよ。いや、まっ たく、本当に。 はやく、人間になりたい。


7.現代の最保守、ロッカーたち

 「俺はロックがあれば何も要らない。きっとビッグになってやる」というピ アス&茶髪系の若者たちは現代の最も保守的な若者層である。なにせ物はあふれ てるのだからとりあえず死の恐怖はないし、ロックをやってると言っていればと りあえずカッコがつくから自分の心にも言い訳が立つし、非常に楽な生き方であ る。(もちろん人間を見かけで決めちゃいけない。こうした人たちの中にも筋金 入りの「ホンモノ」は存在するだろうが、そういうホンモノの人たちこそ、ほぞ を噛んでることだろう。)俺からすれば、こうした一般ロッカーたちよりも彼ら の親父さんたち(残業で疲れよれよれでテレクラに出入りするおじさんたち)の 方がまだラディカルに見えてくることすらある。この世紀末においては、世の中カッコさえついてりゃそれが一番楽なのだ。だから精神的にはロッカーたちの方がずっと楽をしている。ただ、楽をする のは本人の自由なので、それはいっこうにかまわない。批判の対象になどなりえ ない。ただ、そんなあんたたちが世俗の成功と自分の成功をごちゃ混ぜにすることだけはたまらない。勘弁してくれ。ロックが好きなら貧乏でも金持ちでも 良いからよ、一生続けてくれよ。芸術を自分の人生肯定のアクセサリーにしない でくれよ。それこそ自分を馬鹿にしてるってもんだぜ。

 とにかくロックとは今や個性の代名詞にはなりえなくなってしまった。あり ふれた平凡な音楽趣味でありファッションにすぎない。よく「あの人って変わっ てて個性的で面白い」などと言うが、だいたい個性というのはそんな風に他人に 都合良くできているものではない。個性というのは、面白いどころか、場・人の和を尊重する日本人の生活習慣か ら見れば宿敵とも言うべき、あの間の悪い、なんだかわからないけれど場違いで 神経を使う、不愉快極まりないものなのだ。日本ではそれは許されない。だから本当の個性は身を潜めることになる。日本 人の価値観で言う「個性的」とはみんなからウケることであり、つまり本来個性 というもののもつ本質からは最もかけ離れたものである。このようなテーマは、 本当に書くべき事は無限にあるのに、書いてるとだんだん滅入ってきてしまう。 個性とはカラオケで面白い芸をすることか?それともカラオケに行けないことか ?(--まあ、どっちだって似たようなものか。)個性というのは、みんなと同じ 事ができることか、それともできないことか?カツオ君は個性的か?日頃「あい つは個性的だとか」と人間評をかます奴に限って、つきあいの悪い奴、流行に乗 らない奴を、「つまらない奴」だとか「人間味がない」とかと称するが、どうも あんたたちの話を聞いてると「人間味がある」というのは「結局あんたと同じ事しかしない奴」って意味み たいだね。まったく集団主義もここまできてしまえば、もう立派な暴力である。(これに ついては後でまたちょっと書きましょう。)

 ある人が自分とは違うということに対する尊敬の念がまったく見られない
というのは、実はかなり異常な状態である。個性とは人との比較の上になり立 つものではない。むしろ人とは比較ができないものが個性だ。みんな勘違い。早 く人間になりたい。


8.議論のタブー

 俺の部屋には西洋占星学に関する様々な資料がある。書類資料が多いが、他 にもオーディオやビジュアルなものもある。知人がきて話が弾むとついこちらも エスカレートして写真資料(星座別女優の写真スクラップ)など見せると、この ようなセリフが返ってくるのが常である(特に異性)。
 「女の子の写真を集めたりしてカノジョがいやがりませんか」
 「そら、きた」という感じである。俺はだいたいこう言って返す。
 「美術作品を見て「裸よ」と騒いだり、資料を見て「いやらしい」なんて考え るようなレベルの女とは俺はつきあわないよ。」
 まったく、何を見てるやら。人間の品性はどこにでも現れるものだ。

 これとちょっと似た話で、たとえばちょっときわどい討論の際などでたとえ ばAさんが「ポルノは表現の自由だし、見たいときもあるのだからいいじゃない でしょうか」と言ったとする。すかさずもうBさんが「じゃあ、あなたは見たい んですか」と言う。これは、人間に関わる議論の論法上最も卑劣なやり方である 。Aさんも一個の人間の代表である。その人が見たいかどうかということはプラ イバシーの問題で、ただAさんが女性であれ男性であれ片方の性の代表として「 このような可能性もある」と心理を述べたのだから、これは尊重されるべきであ る。さもなければすべての意見はその人個人の立場からしか発生しえないものに なってしまう危険がでてくる。人間には想像力がある。この想像力を否定するようなやり方には、もう少し敏感になるべきである。世 の中は本当に表面ばっかりカッコつけていてはどうにもならないところまできて いるというの。、いまだに、個人の趣味を社会的な場所に引きずり出して問いた だそうとするのは、もう議論の問題以前の悲しい愚行である。これは実は日本じ ゅうの小学校でなぜか伝統になっている「やぁーあいつ、大便しったー」というやつと構造的に同じである。この次元だから、エイズ予防運動も一向に進まない。まったく今時の大人は! である。

 俺が頭の中で女の裸を想像しようが、お釈迦様に手を合わせていてようが、オ タクの知った事じゃないよ。人間の心の中というのは一個の宇宙のようなもので、その人が仮にどんな恥ず かしいことを考えてもそれを自らの判断で公にしなければ、いっこうにその人の 人格とは関係がないのだ。むしろそうした表現の取捨選択の判断こそがその人の 個性だというべきではないのか。(それよりも、考えてないように自分をごまか す鈍感さを備えた人の方がずっと始末が悪い。)

 よく占いをしていると「私って二重人格なんです」なんてのたまう人がいるが、ずいぶんと単純な人もいるもんだと感心してしま う。こういう人は周囲の人が皆見たままのマンガのキャラクターかなにかと同じ だと思っているらしい。だから自分の心にそのマンガ・キャラクターに当てはま らないような矛盾が起きたとき、自分にだけ起きた特別な現象だと勘違いしてい るのではないか。(モーツァルトは天使だ云々と言うのもこの類か?)人間なん て百重人格くらいのものである。二重くらいだったらそれこそ大変だ。ただその 百重にいちいちつきあってたらきりがないから、適当なところでまとめているの である。ところがそうしたことにまったく気がつかずに、人生を歩んでゆくと、 型にはまっていない、つまり場の和を乱す人間が許せなくなるのでしょうね。お やおや、またまた個性の話に戻ってきてしまったね。

 ああ、プライバシーよ、どこへ。はやく人間になりたい!

9.けんか両成敗ってのはなんだ?

 日本には「けんか両成敗」という伝統がある。詳しくは知らないが、なんで もかつてお上が国内情勢をまとめるのに手いっぱいなときに民衆をとりあえずま とめるために利用されるようになった言葉だそうだ。「けんか両成敗」こんな無 神経な言葉が今でも平気で教育の場で先生の口から飛び出したりしているのであ る。「世の中に正義も悪もない、とりあえず表面を荒立てた奴が悪い奴だ」と言っているようなものである。要するに物事をスムーズにやらない、いわば見てくれの悪い奴は、それだけで 悪いと言っているのである。けんか両成敗なんてあってはいけない。けんかが起 きれば、(もちろん両方とも悪いこともあるが、)まずは、どちらかが悪いに決 まっているのである。怒らないことがそんなに良いことですかね?これだけひど いことが毎日起きているのに、仙人かサザエさんぶってていいんでしょうか。怒 りには、二種類あります。自分を卑屈にする個人的感情からくる怒りと人間としてのプライドに支えられ た正義の怒りです。さあ、あなたの怒りはどっちかな?

 二人の人間がいたらその二人の意見が食い違うのは当然である。食い違って 当然のものをあたかも「みんな同じ」みたいに扱うのはかなりやばいんじゃない かな。それから「大岡越前」というテレビ番組で、だいたい必ず最後に「ありが とうございました」とかと、大岡越前に裁かれた側が頭を下げるシーンがあるけ れど、これは現代の考え方からすると凄く違和感だよね。だって本当は、大岡越 前は単なる法の執行者で、大岡越前が世の中の正義や悪を決めてるわけじゃないんだからね。もちろんそんなことをわかった上でみんなが時代劇を楽しめば良いんだけれ ど、医者や弁護士や教師を過剰に尊敬するこの国独特の特性は、実は、世の中に は正義だの悪だのはない、権力者が世の中を動かしているのだからその権力にお もねようという民衆のいやしい意識も反映しているのである。「この世の中を作ったのは神でも悪魔でもない。向こう三軒両隣にちらちらす るただの人である」(夏目漱石「草枕」)という思想の悪しき面がはっきりとでてるわけですね。
 
 (こんなこと書くと、上田は時代劇が嫌いなのかと勘違いする人がいるがそ んなことはありません。かなり前のことですが「水戸黄門」で角さん(助さんだ ったかな?)が「ご隠居、ファイト!」と外来語を使っていた。--これはうっかりだ。考えながら見てるとテレビがつ まらなくなるんじゃないの?と聞いた人もいたけど、俺は自分ではかなりテレビ を楽しんでみている方だと思う。)

 ああ、日本人が大好き!はやく人間になりたい!

10.写真を見て「優しそうな人」と考える不思議

 女の子と「好きなタイプの異性」の話をしているとよく出るのが「優しい人 」でその次くらいに多いのが「冷たい人」というやつだ。(これまた「プロム主 義」の内容なのでここでは軽くふれるにとどめておきますが、)「優しい人」と いう語の選択は、微笑ましい位に素朴な真実を含む反面、人によっては相手のル ックスまで含んでいることが多い。「優しい人」という言い方は決して悪いもの でもないので、これ自体にもの申す気は毛頭ないのですが、ただ、ここからどこ で間違えたのか、グラビア等の写真を見て「この人の目尻のところが優しそう」とか言うのをきくとかなり死にそうな気 分になるのは決して私だけではないでしょう。言うまでもなく、優しさとは、出会いがあってそれから生まれるのが普通で、「その人は誰々に対して優しい」という表現が基本でしょう。人はすべての人に同じようには優しくなれない。だから、会ったこともない人をいくら好きになっても不思議はないにしても、 その人を「優しい」と感じるのは実に変だ。会ったことのない人を「優しい」と感じるのは異常です。オタクなんて程度じ ゃありません。(俺にはその人が性欲を丸出しにしているように聞こえる。人が異性の裸を見 た時起きる衝動にているからだ--客観的なはずなのに情動的。)

 要するにこの場合の「優しさ」とはルックスのことなのだ。ルックスが良け れば優しそうに感じるというならば、表面がハンサムな男・きれいな女には少し くらいのことをされても優しいと感じ、かっこわるい男やきれいでない女には何 をされても気分が悪いという、究極の表面主義に至るのです。(セクハラ問題と もからんでくるね。)

 この対極にあるのが、「あの人は優しい人だ」と言うときに、その根拠が実は自分がその人からうれ しいことをされただけであるという場合の表現である。日本的あやふや文化の典型例ですが、自分が 食事でもおごってもらえばそれで優しい人だとか良い人だとかと言うことになっ てしまっています。(こうして日本人社会ならではの集団主義ができてゆくのだ 。問題が生じたときに「あの人も良い人だから」というやつである。--人間なん だから一つくらい良いところ・優しいところがあるのは当然だよね。)じゃあ、 あなたがいま、「こいつはやな奴だ」と思っている人は本当に誰に対しても優し くない人でしょうかね。--そんなこと、ないよね。だから結局、「優しい人」・「良い人」という表現は、それを語っている人が話題になって いる人を好きだと言っているにすぎない。だから女の子が「優しい人が好き」というのは「自分が好きになった人が好き 」と言っているだけなのだ。いや、実に微笑ましい。

 それにしても、あっちゃいけなのは、人の悪口を鵜呑みにすることでしょう ね。(たいていの人が少なからずやっている。)つまり、AさんがBさんの悪口を言った場合そこからわかるのはBさんが悪い人かどう かということではなく、AさんがBさんを嫌っているということ、または、Aさん があなたに対しBさんを悪く思うようにし向けているということのどちらかなわ けです。

 「じゃあ、結局、おまえはどっちの態度をとるんだ?「優しい」という言葉 を使わないのか」と言われると、どちらの意味でも使うとも使わないとも言える のだけれど、この二つの意味があるということを分かって使っているつもりです 。言葉は生ものなので、表現は状況によって必ず微妙に違ってくるのはやむを得 ないことなので、上記のことを意識しているだけで自ずから卑しい表現は避ける ことができると信じられるわけです。
 いずれにせよ、人がまさに人であるのと同時にたったひとりの人にすぎない 存在でもある以上、人を好きになっているのは、自分の感性で好きになってるの だ、ということを強く意識していたいですね。だから会話中に出くわすまた別の 最悪パターンは、自分の人に対する感情を言った後で「Aさんもそう言ってるし ・・・」というやつである。自分の好き嫌いの感情の裏付けに他の人の弁を利用するのは最低である。

 噂に弱い人々、感じてるようで何も感じていない人々・・・、はやく人間に なりたい。


11.人間は外見である。

 人間は外見である。これは間違いない。俺は人とは外見でつきあう。ただし その「外見」という言葉にこめている意味が違うことは言うまでもない。

 繰り返し言うが人間は外見である。そいつがどんな奴かは会ってみればわか る。別にたくさん語らなくてもよい。その人が生きてきた内容など、顔の表情や 容姿にすべて表れている。それを好きになれなければ同性であれ異性であれつき あいは始まらない。一目できめるとは限らない。でもきめたってかまわない場合 もある。それよりもむしろ一目できめるかどうかの判別を一目でできる方が重要 だ。外見に惑わされるということもあるだろう。しかしそれも自分流に惑わされ たというなら結構なことである。

 外見と内面が違うという二元論にはぞっとする。「あなたは外見はよくないけど内面はステキ」なんて死んでも言われたくない 。(人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。俺は人間だ。)俺は中学高校の頃モテ なかったようだ。それは俺の外見がカッコ悪かったからではない。俺の外見を理 解しない人間が多かったからだ。(人はみなモテる権利がある。)それより自信を失う方がよほど怖い。(そして当時おれはおそらく今ほどは 自信がなかった。)

 「そんなこと、あなたが男だから言えるのよ」というお嬢ちゃんたちもいる だろう。その通りだ。俺は男だからそう言っているのだ。もし俺が女ならなおさ ら世間体など気にせずに自分の内面通りの顔や容姿を身につけるだろう。その方 法は一つとは限らない。でも流行のファッションばかり追いかけたりはしないだ ろう。流行が嫌いなのではない。流行は、見て、考えて楽しむものであって、自 分がその上に乗って踊るとあっと言う間に年をとってしまう、そういう性質を持 っている。俺はケチなので安売りはしない。たまには安売りをしたいと思ったら そうすることもあるかもしれない。容姿に自信を持てなどと言っているわけでは ない。しかし自分の外見中心に物事を考え、感じ、外見で判断すべきだ。外見で 判断して見誤りっぱなしの人間は、芸術などたぶんわからないだろう。外見で判 断して失敗したという人は「主観は曖昧なものだ」などとわかったようなことは 言わないでいただきたい。芸術は外見しかない。感じることがすべてだ。

 また「人間、外見じゃない」という奴に限って、容姿や振舞いから他の人を 勝手に決めつけていじめ回している。「や〜い、デブ」などと人のことを呼ぶ輩 である。「親愛の情をこめて言っているんだ」などという奴はすぐさまその舌を 抜いてやりたい。そういうせりふはついぞ親愛の情になったためしがない。なぜ ならみんな人間だからだ。人間は人間であって決して「デブ」にはなり得ない。そしてまた、「人間、外見じゃない」という奴に限って、ちょっとかわいい( かっこいい)アイドルなどを見ると何かとんでもない別のものを想像しているよ うだ。想像したってかまわない。でもその想像の代価はその人の脳細胞および顔 の皺にかなり露骨に表れるようである。俺はそれを隠しおおせた人を知らない。
 みなさん、人と外見でつきあえるようになりましょう。はやく人間になりた い!

 

12.個性的な人・人間的な人

 7章でも少し語ったことですが、何がおぞましいといって、この二つの言葉 の日本における使われ方くらい心苦しいものはない。まず、日本で一般に「個性 的な人」といわれる人で本当にそうだった人にあったことはない。人と皆同じで なければならない国、人の価値を他の人間との比較や団体の中での有用性とかで しかきめられない国において、「個性的な人」とはすなわち「他の人の劣等感を刺激しない程度に他の人と違 っていて人を楽しませる平凡な人」ということになるのだろう。また、同様に「人間的な人」とは「他の人の卑屈さを刺激しない程度の共通の趣味や話題を 持っている人」ということになるのだろう。

 わかりやすい例を出してみよう。たとえばスポーツが嫌いだという人がいた とする。その人は運動能力が劣っているわけでもなく体育の成績が特に悪かった わけでもないが、スポーツ自体は好きでないとしよう。しかしそんなことを言っ ても誰も信用しないのである。おそらく彼は「運動神経が鈍そう」というレッテ ルを貼られるのである。「別に、好きじゃないだけなんだ」といくら言ってもも うだめだろう。「うまくできれば、おもしろいに決まってる」という暴力的価値 観が入ってくる。俺から見れば、みんなと同じものを好きになれないだけそいつ の器は大きいかもしれないと思うのだが、日本人はそれを許さない。スポーツは 好きでなければいけないのだ。もし、仮にスポーツ好きでない彼が受け入れられ たとしても、今度は共通の話題や活動がないと認められない。スポーツ・カラオ ケ・ファッション・・・、みなそうである。そしてしょうがないのでつきあいで どれかをやってみる。するとその彼は、自分が好きなものでないので、信じられ ないほどうまくできないのである。その出来映えは幼稚といっても差し支えない ぐらいだろう。(このうまくできない度合いは、その人の個性の強さに比例する 。)結局、こいつはかっこわるいキャラクターのある奴ということになる。その 合間に話題つなぎに、彼がこの前見た上田なにがしのHPなど思いだし「西洋占 星学って感覚でわかるんだぜ」なんて言おうものなら壊滅的にアウトだろう。選 択は許されていない。個性は抹殺される。

 個性に対する誤解がもっとも恥ずかしい形で表面化するのは、外国人と接触 した場合である。たとえば、ハリウッドの映画スターをインタビューしたアナウ ンサー嬢にコメントを一言。たいてい次のようなものだ。「イメージと違って、とっても優しくて人間味のある人でした。」(うわぁ〜 たまらん)「優しい」と「人間味」のダブルパンチである。(同じことを通勤列車でいつ も会うおっさんにやられたら「あの人、いやらしい」なんて思うんだろうな。) 映画のイメージとその人が違うのは当たり前である。ビジネスで(またはそれ以 外の場所でも)人と会ったらジェントルに振舞うのもまた常識である。自分や周 りの作り上げた個性になりきって平気でなれなれしい口をきいたり、ワイルドを 気取ってみたりする芸能人が存在するのは、日本だけである。中学生じゃあるま いし、他の国の人々は、さぞかし日本人は軽薄だと思っていることだろう。こう して日本において、ジェントルマンやレディーの存在は否定されるのである。( これもプロム主義だ。)

 日本人が「個性的な人材を求む」なんて言っているのもひどい自己満足であ る。「個性」とは他の人と相容れない独創性を持っているということである。人 や会社に都合のいい個性など存在しない。「個性」とは、一般的社会的価値観か ら見ると、どうにも歯切れが悪く、要領も悪く、文句の一つもつけたくなるよう な種類のものである。そして本当は、相手を尊重すること・相手の個性を認めることとは、個性というこの「なんだ か気持ち悪いもの」を許容するところから始まるのである。この文を読まれているあなたが、日本社会において「個性的」と言われたこと があるなら、それは要注意である。あなたの個性は弱いかもしれない。もしいわ れのない理由で(「よくわかんない不愉快な奴」とかと思われて)激しい違和感 や憎悪の感情を持たれたとしたならば、あなたは成功の途中にいる。その個性を 伸ばせば、生涯に人として立派な仕事を残せるだろう。
 さあ、みんな、はやく人間になりたい!

 

13.老人と若者が対立したときには若者が正しいに決まっている。(または子供 は嘘つきである)

 ここではもちろん、いつでも「老人よりも若者が正しい」などというつもり はなく、まず、「対立」という条件が重要になる。二者が対立したとき、若者は 自分だけで勝手に作り上げた空想原理で話し、老人は今までの人生経験から獲得 した教養でものをしゃべる。通常、現実の成り行きは結果的に老人の予想したと おりになる。そして「ほら、言っただろう」となるのである。しかし我々は老人 のこそくな処世術など、必ずしも必要としていない。現実にはうまくいかないや り方が、必ずしも間違ったものだとは限らない。老人はその経験から物事の結果 をおおよそ予測できるから、そうした「世の常であること」に心を奪われる。と ころがこうした精神が世の中を動かしたことはない。(いじめ問題の始まりの頃 でも、ビートルズ来日の時でも、こうした老人たちが何を言ったかよく思い出し ていただきたい。)

 このようにして考えてゆくと、立派な老人になるための重要要素は、まず堂 々と怒ることができることである。怒ればいいというものではないが、老いて心 の平安を得ているというような顔をしつつ、実はこそくな処世術で自己防衛をは かっている恥ずかしい老人が多すぎる。ゲーテは「老年とは、少しばかりの虚栄 の混じった青年である」と言ったが、その通りである。自分は自分であり年をと って別の人間になるということはない。自分が変わったような顔をすることは、 若い奴が「じじいは引っ込め」などというのと、年齢差別という点で、まったく 同じことである。俺自身は、少なくとも記憶に残っている限り、30年以上前の幼 いときの自分と今の自分には寸分の差違も感じない。もっとも周りの人間の中に は俺が年とともに違ってきたように見えるという奴もいるが、それはもともと本 当の俺を知らなかった奴ばかりである。従って昔の自分と今の自分は違うという 奴は、自分がわかっていなかったと言っているにすぎない。――まあ、わかって ないからどうのというのはまた別の話なんだけどね。

 このように本当は人間というのは、決してその本質において変わることはな い。(変わらないから悪いということは、この場合、決してない。)だから、若 いからその人間がかわいいなどということは決してないのである。若いねーちゃ んがかわいいのは性欲である。赤ちゃんを無邪気でかわいいと感じるのも性欲で ある。自分の自己中心的感覚的欲望の表れである。こうしたエゴイズムの行き過 ぎが、小中学生に「いじめられたらいじめ返してこい」などという残酷な発言を 生むことになる。子供たちの見た目がかわいいから(どうせこどもなんだから) 大したことにはなるまいという無責任がそこにはあるのだ。「アイドルはトイレに行かない」というのと同じですね。(先に述べたように人は外見である。ちょっとした見かけに惑わされていると 外見から人を判断しておつきあいする事ができなくなる。)もし本当に「いじめ 返せ」と思うなら、町で因縁つけられた暴力団に一人で立ち向かってごらんなさ いよ。それからカンボジアの人々に「やったらやり返せ」とメッセージを送って ごらんなさいよ。

 このようなわけで子供だから特に純粋ということは決してない。俺はもう長 年小学校から大学院生までの学生たちとつきあっているが、子供たちの嘘はひど い。まあ、嘘をついていない子供などいないと言っていいね。「いや、そんなこ とはない。うちの子は正直すぎて困る」とおっしゃる親御さん方。ご心配なく。嘘はつき まくりです。ここまでくると、嘘をつくことは決して悪いことではないのだとすら、言いた くなってしまう。

 人が嘘をつくには二つの大きな問題が絡んでくる。プライバシーと個人的利 益である。大人のプライバシーに比べれば子供のプライバシーは完璧に守られて いない。当たり前のことである。教育を受けている身である。大人の場合プライ バシー問題のためにその人の内面までぐちゃぐちゃにされることは決してあって はいけないという前提が、一応ある。ところが子供についてはこれだけ多様化さ れた社会においてもそれは確立されていない(確立され得ない)。また、この多 様化された社会の様々な違う場所において、子供たちは大人や社会から相反する 両立し得ない行動パターンを要求される。この要求をのまないと個人的利益は得 られない。(かわいく振舞って飴をもらう、等々、生存競争の学習も含まれる場 合が多い。)これで子供が嘘をつけない方がおかしいのである。嘘をつくから、 子供も純粋ではないとは限らないが、本来純粋であるはずの子供まで不純な態度 を強要されていることは間違いないだろう。こうして多様化された社会において 子供の嘘は必然に近いものとなってしまっているのである。
 さあ、みんなで嘘を!はやく人間になりたい!
 

14.愛と性だけは学ばないと分からない
(プロム主義前宣伝)

 世の中のことはたいてい一人で学ぶことができる。もちろんこの言葉の可能 な限り広い意味においてである。同性なら友達づきあいですら、自分だけで勉強 できることがある。自分の親友が非常に偶然的に同じ性質を持った人であったり すれば、可能である。それは格段、人を知らないということにもならないと思う 。しかし、性愛だけは別である。
 たとえばA君はとても勉強ができ、まじめでしかも人付き合いの良いいわゆ る「よい人」で、社会にでてからも認められ、周りの人間からは尊敬され、その 上適齢期女性からのあこがれの的だったりする。それでもそんなことだけではA 君は決して満足できないのである。自分の情熱で美しい人に会い、何度も裏切ら れながら、「自分が好きなのだから相手もこちらを好きなのだ」という本末転倒 の美学を成就させた経験がなければ、すべては無に帰るのである。残念ながら、 現代日本はおとながこうした見本を見せていないという点で、最低である。巷に あふれかえる「君だけを愛してるぅ〜」的ラヴソングがその証明である(かわい そうなやつら)。人から百万回「偉い」と言われるより、異性からの「かっこいい」「かわいい 」の一言の方がよほどその人を救うことがある。また、こうした性的体験の道は常に自分で思っている以上に険しい。異性は必 ずあなたを裏切るだろう。裏切られたことがないなら、あなたの方がいつも裏切 る側に回っているというだけのことだろう。

 この性的体験の道の険しさをなくすものが唯一あるとすればそれは、生存の 険しさである。我々が戦火の中で生きているとか、明日食べるものも見つからな いという状況なら、本当の愛は、自己愛を通じてでも容易に生まれる糸口を見い だすだろう。しかし今の日本ではそれは望むべくもない。だからその欲求不満に あえぐ人々が、援助交際に、不倫に、そしてこの二つよりはるかにやっかいな「 ふつうの交際」にひた走るのである。

 次回より発表する「プロム主義」は、日本人の大人として我々が何ができる か、人生の後輩たちに何を見せ何を伝えるべきかを示すものである。もちろん教 育関係にとどまる内容ではない。日本人の犯してきた罪悪を少しでも効率よく清 算するために「この切り口で間違いなくイケる」と私が実感しているものである 。全員で一斉にやったら一瞬にして世の中は変わるだろう。ただ、みんながその 内容を理解できるくらい気がついていたなら、いままでにすでにこれほどまでに 世の中は悪くなってはいないだろうとも言える。
 悲観しているのではない。怒っているのだ。みなさんもっと怒っていただき たい。モノに恵まれた我々に今、怒ること以外に何が残されているのか、もう一 度考えていただきたい。世直しだ。早く人間になりたい!

15.気が小さくない男は存在しない

 よく男性からの相談など受けていると、「私、実は非常に気が小さいんです 」という人がいるが、これは「私は男です」と言っているようなものだ。男はみんな気が小さい。そして気が小さくない男など男らしくない。腕力の強い男は気が小さくないように見えるかもしれないが、それは自分の肉 体が強いからで、その人が勇気があるかどうかとはもちろん関係がない。町内で 一番腕っ節の強いいなせなあんちゃんだって、もしアメリカの特殊部隊に放り込 まれたらどうだろう?私はここで一つ非常に残念な帰結を言わなければいけない 。それはつまり、「正義が勝つのは、あまり強くも弱くもない人の間においてのみしか可能でない」ということだ。お互いに「勝てる」と思わなければ喧嘩とか決闘というもの は成立しない。「絶対勝てない」と思ったら逃げるべきである。戦車に素手で立 ち向かっていっても意味はない。(その愚かな精神主義は日本人は敗戦で思い知 ったはずだ。)同じ土俵で勝つことばかりが勝つことではない。アメリカ特殊部 隊で鍛えられた人が一般人と戦うのは卑怯だし、また一般人が身体不自由な人を 相手にするのも卑怯である。つまり戦いとは力が適当に同じである者同士の間で しかありえない決めごとにすぎないのである。
 ある意味、本当に勇気のある人とは自分の気の小ささのメカニズムを良く知っている人かもしれない。誰だって自分より強大なものは怖い。この怖さがわからないこ とは決して勇気があるということにはならない。このことを知らずに、自分が強 い(勇気がある)と思っている人がいたら、それは単なる世間知らずである。ど のような分野においても何らかの形で「上には上がいる」し、何らかの意味で頂 点に立ったとしてもそれが果たしてそれほど意味のあることなのか疑問である。 せいぜい見せ物程度の代物である。私は逃げることも、謝ることも、守りにはい ることもかっこわるいことだとは思わない。ただ、自分にとっては、戦っている ときが一番楽だから戦うのである。(あんまり守りに入っている人を見ると、「 苦しいだろうな」とかいらぬお節介を考えてしまう。)古来の価値観での「女性 」は喧嘩の必要はなかった。だから気が小さくはなかったし、勇気もあるのだ。 彼女らは何らかの形で体制というものを信じ切っている。しかしその意味では「 男性」は戦う立場にあった。だから勝たなければいけない。負けてしまったら自 分自身の代わりはない。だから気が小さいのだ。(人生ずっと武者震いだ。)
 もしあなたが自分の気の小ささに気がついていなければ心配である。なまじ 硬い木や針金がポキンと折れるように、あなたは人生で考え違いをするかもしれ ない。(でも突っ張らなきゃ生きていけないときもあるよね。)
 人は弱くていいのだ。強い男なぞ、馬鹿な女の幻想だ。そんなものに踊らさ れる男はかなり弱い男だ。そして実はその真理は男よりも女の方がよく知ってい る。なぜなら女は弱いからである。だから結局みんな弱いのさ。人は弱くてもい いんだよ。早く人間になりたい!

16.人類はみな兄弟ではない in Japan.

 「人類は皆兄弟」という言葉は、もともと人類は皆兄弟ではけっしてないと イヤと言うほど知っている人の言葉である。そのことを理解せずに安易に「皆兄 弟」を掲げる人は、かなり残酷なやり方でアウトサイダーを作りだし、無責任に 閉め出すことになる。
 世界には実に様々な人間がいる。よく「ひどい人」のことを「虫けらにも劣 る」などという言い方をするが、人間と人間の間にある格差というものは(その 基準が何かということは別にして)人間と虫けらというくらいの程度差ではない 。大宇宙と芥子粒そのくらいの差はゆうにある。「誰とでも仲良く」というのは 「トラもウサギも仲良く」と言うようなものである。実際に目の前にウサギがい てそれを苦しめているのが自分だということはついぞ考えたことがない。このよ うに「皆兄弟」思想はいじめの思想に直結するのである。
 ちなみに、トラや狼が喧嘩をしても決してどちらかを殺すまでということは ないが、ウサギは殺すまでやるそうである。弱い動物ほど仲間をいじめるし、社 会においていじめられるのは強そうに見える動物である。「共通の敵」こそが弱 い動物の最大の関心事である。そして弱い動物の行動には「あいつは強そうだか ら少しくらいいじめてもいいじゃないか」という言い訳が根底にある(資本主義 崩壊である)。しかし強い動物の方が弱い動物より痛みを感じないなどという、 短絡的マンガ的構図は勘弁してもらいたい。強い動物の方が痛みに耐えられる分だけその痛みも大きいのである。

 ある学生が俺のところにきて、「うちの母方のおばあちゃんとお父さんが仲 が悪くて困っているんですけど、どうすればいいでしょう。僕としては譲り合え ばいいと思うんですけど。」とたずねてきた。俺は「じゃあ君はクラスで一番嫌いな女子生徒と無理矢理結婚させられたらうまく やっていけると思うか」と答えた。我慢することが美徳であるとは限らない。日本の我慢文化は事実「 卑屈」という精神的腫瘍を生み出した。俺は、問題のこの二人が別居すればいい とばかり言っているのではない。ただ、このお二人の精神的苦痛を本当に彼らの 立場に立って理解してあげる必要があるのではないか。(たとえば、父の方へ行 き「あのばばあ、とんでもねえやつだ」と口先だけでも言ってみるとか。――ウ サギはウサギ、トラはトラなのだから。それだけで人は救われるときがある。救 われないときもある。)
 「人類皆兄弟」というのはすなわち「私はどんな女とでもセックスします」と 言っているようなものである。まあ、したけりゃしてもいいんだけど、それならなおさら自分のやりたくない のを相手の造作とかのせいにするようなことはしちゃいけないよね。でもだいた いの奴がそういうことをするんだよね。でも一人でいじめるのは気が引けるから みんなでやるんだよね。これが差別というやつだね。結局「人類皆兄弟」と言う人たちは、それが真実ではないということをいやと言う ほど知っていて、それをあえて言っている人たちか、それとも世界や人間をまっ たく知らずに(まさに差別意識ぎりぎりのところで)それを言っているかのどち らかだね。
 
でも、考えてみれば、日本のオンナは海外では誰とでも寝ると評判だし、その 点ではやっぱり「人類皆兄弟」を実践してることになるのかな。いやでもやはり さらわれて二度とかえってこれない人も多いというから、やはり「人類皆兄弟」 ではないということになる。

 とりあえず「人類皆兄弟」だよね。みんないい人だよね。好きな人ばっかり だよね。誰とでもつきあってみたいよね。はやく人間になりたい!

17.名詞としての「愛」、動詞としての「愛」


 世の中には空間と時間があり、陰と陽があるように、とりあえず「愛」とい うものを名詞と動詞に分けて考えるとわかりやすい。名詞としての「愛」という 言葉の有効性は、我々の世界にあたかも「愛」というものが実体として存在して いるかのように錯覚させてくれるところにある。「ほらほら、また上田の皮肉趣 味が始まった」と思われる方もいるかもしれないが、まあ聞いていただきたい。 現代はこの名詞的「愛」の大安売りの時代でもある。メディアのせいである。流 行歌の安っぽい歌詞はもちろんのこと、自分で自分の恋愛に「純愛よ」などとの たまう人たちのいう「愛」も、この名詞的「愛」の取り違い的末路だろう。メデ ィアによるこうした取り違いの最近のわかりやすく典型的な例は、冬季五輪の「 感動をありがとう」というセリフだろう。派手な広告、セレモニー・・・スポー ツが安っぽくなるというものである。「感動」を知っている人間のセリフとは思 えない。人類の歴史の大半はおそらく死ぬか生きるかの毎日だっただろう。「愛 」はたしかに存在していたが、でもその「愛」はそんなにインスタントにどこに でもころがっているようなものではなかったし、また生きるのに必死で、そんな 物の存在を意識している暇などなかったことだろう。そのうちに知識人たちはそ れを整理し、文学やそのほか様々な形を通して、自分たちが生み出した「愛」の かたちを主張するようになった。これはまさに一つの文化の始まりだった。こう して私たちは先人の「愛」を学び、自分たちもそれに負けない「愛」をはぐくも うとしている。しかしこの名詞の「愛」の器に及ばない愛はあまりに多い。(い や、もともと人間の「愛」などそんなものかもしれないが。)
 たとえば、「もう夫とは別れたい。愛がなくなったから。自分に正直に生き たいの」という女性がいたとする。この言葉だけ抜き出せば、それはそれで実に まっとうな理論である。俺なら「やれ!やれ!(そして俺とつきあって)」とた きつけるかもしれない。しかし実際に、二人の間に「愛」なんてものがあったのだろうか。当人の都合 で現れたり消えたりするのなら、その「愛」とは随分都合の良い代物である。もともと「愛」などなかったのかもしれない。ただ以前は「愛」があると信じ ようという気力があっただけなのだ。もともとルールも形もないものなのだ。だから消えたと考えるのも簡単である 。しかし、事情が何であれ(経済・社会的責任・子供の問題・きまぐれ・めんど くさい・さびしい・もてない等、本当に何でも良い)、その人が相手のところに とどまる場合、そこに必要なのは動詞の「愛する」ことである。人生において名 詞の「愛」より動詞の「愛」、つまり愛することが必要なときもある。ちょっと キリスト教っぽいが、この例ような場合、なにも名詞的「愛」がなくてもいいの である。俺は「相手を愛してあげなさい」と言うだろう。「だってもう愛がない んですよ、愛せないんです」ーー「いや、それはまったくおっしゃるとおり。で もそれは最初からあったかどうかわからないものなんだから、あるとかないとか いってもしょうがない。だから、愛してあげればいいんです。」ーー「どうすればいいんですか?」ーー「あなた、人を愛したことないんで すか?」−−「あると思います」ーー「じゃ、同じようにやればいいんですよ。 ご主人を愛してあげてください。」
 哲学用語でいえば、名詞としての「愛」は「エロス」、動詞としての「愛」 は「アガペー」に近いだろう。何も聖人君主になれとは言わないが、最初にも引 用したとおり、「人間は神になろうとしなければ人間にもなれない」のだから。 その証拠に最高のエロスの昇華である芸術には実体がないではないか。そしてそ れゆえ芸術は決して万人のものではなく、どうしてもよくわかる人とわからない 人がいるし、人生の青年期の恋愛にもモテる人とモテない人が存在しているので ある。自分の心の中の名詞としての「愛」を良く知らなければ、動詞としての「 愛」が育つことはないし、また逆に自分の動詞としての「愛」をよく鍛錬しなけ れば、名詞としての「愛」も実体化してこない。どちらにしても本当の「愛」あ る人生には近づかない。世の中にモテる人とモテない人がいるのは当たり前とい う以上に自然なことである。それと同様に芸術をわかる人間とわからない人間が いてもいいのだし、ただし一番困るのは、主観的な作品を何でも「芸術」という 名をつけて賛美することである。芸術には言いものと悪いものは確かにあるし、 「愛」にもまた本物と偽物がある。わかってもわからなくてもかまわないのだけれど、適当な名前をでっち上げて わかったフリをするのだけはやめていただきたいものだ。はやく人間になりたい!

18.正義の怒りをもって人に注意をしてはいけな い。


 よく、電車の中でマナーの悪い人を注意したりする人がいて、これはこれで まことに立派な行為なのだが、そこに正義の怒りをからめて行う人がいる。それ は間違いである。人に注意をしたいなら、正義の怒りをこめてはいけない。もち ろんそれが高官の汚職だとか殺人事件だというのなら話はまた別である。それは 単なる規則違反の域を脱した人間としての本質的な善悪の問題に関わっているか らである。しかしそれ以外の理由で悪い奴を見て怒り、文句を言うのは間違いで ある。満員電車に乗ったことのある人ならわかるだろうが、それは自分のストレ スからくる抑圧された攻撃本能の発散である。それでも悪いことを注意するのな らいいじゃないかというかもしれないが、そうはいかないだろう。たとえば、あ なたが電車に乗ったとしよう。目の前でいかにも暴力団風の男が日本刀片手に、 ウォークマンを大音量でかけたばこを吸い、ガムを床に吐いたとしよう。あなた は怒りをこめて注意するか?注意したら自分の身が危ない。注意したらばかであ る。ということは、ガムをかむ人間に怒りをこめて注意をする場合、あなたは「こいつになら言っても大丈夫そうだ」と思う人にしか言わないのである。ようするに相手を選んでいるあなたはすでに弱いものいじめをして いるのである。これはあくまで例である。俺だって、注意ということなら、車内 ですることもある。ただし違うのは、そのときに偉そうに正義の怒りをぶつけな いということである。人間、一つや二つ(百個や二百個)欠点はある。たまたま 自分の基準で目に付いた対象に怒りをぶつけるのは、実は怒りたいだけかもしれ ない。ガムを捨てたのがあなたの家族だったらどうだろう。あなたの恋人だった らどうだろう?ーーおのずと、正義の怒り以外の振る舞い方ができるはずではな いだろうか。(愛をもって卑屈に注意しようね。)
 渋滞の時、高速道路の路肩を走る車をみたことがあるだろう。あんなルール 違反をしてはいけない。それは当然である。しかしそのときあなたが「みんな我慢しているのに」とつけ加えたなら、それは間違いである。ルールは守るのが当然なので、それがそのみんなのなんらかの取り分 を奪うものでない限り、みんなが我慢しているのは当たり前である。あなたの心 の中に「一人だけ抜け駆けしてずるい」と思うのならあなたも我慢せずやればよ い。人が後から決めたルールというのはそういう側面をもっている。(この場合 その抜け駆けした人のおかげで渋滞は車一つ分だけだが軽減されるので、他の車 に直接の悪影響はない。)「でも、緊急用の車が通る路線なのだから、もし万一 何かがあったらどうするの?」という人がいるだろう。それはまったくその通り だ。でもそれはとりあえずあなたが心配することではない。おかみに任せておけ ばいいのだ。その路肩を走っている車の中には瀕死の重傷のけが人がいるかもしれない。そ れはあなたには見えない。いや、もっと人から見ればつまらない理由でも良い。船か飛行機でどこかに旅 立ってしまう恋人を引き止めにいくのかもしれない。それは人から見れば遠慮し てほしい理由かもしれないが、それによってその人の人生は大きく変わるかもし れない。俺だったら「路肩を走りな」というかもしれない。それは各自が自分の責任で判断するしかない。
 車が通ってないのに赤信号で渡らないのは日本人だけである。他の国では自 分の責任でどんどん渡る。「子供の前で信号無視をして恥ずかしくないのか」と 怒るおやじが時々いるそうだ。(しかしこのおやじも暴力団にはいわないだろう 。愛があれば怒れるんじゃないかとも思うけれど。)恥ずかしいのはこのおやじ の方である。怒り返してあげよう。「子供の前でルールと現実の相違一つも説明できないなんて恥ずかしくないの か」と。
 このように、正義の怒りによる見知らぬ人への注意は、実は、抑圧され卑屈になった攻撃本 能の発散にすぎないのである。はやく人間になりたい!

19. 「薔薇」という字が書ける人を尊敬してい てはいけない。

 教養のない人間の最大の特徴は、教養と知識の区別が付かないことである。知識などいくらもっていたって、ちゃんと自分のもの にしていなければ、知識のないものを馬鹿にしたり、知識を悪用したりするだけ である。きちんとした教養を持つ人で「薔薇」という字が書ける書けないを問題 にする人はいないだろう。(書けるから何だ?)書けない人だって大勢いる。と ころが教養が不足すると、自分は教養がないのだから知識即価値あるものと錯覚 し「薔薇」に驚くのである。先日も、テレビである女優が、「薔薇」だか「範疇 」だか、字が書ける人に感動したという話をしていた。(こうなると「女優」どころか「女劣」である。)「英語が喋れるだけで尊敬してしまう」というのも同じ類である。
 知識でなくとも芸術など他の分野でも同じことである。ちなみに、アインシュタインは計算ミスが多かった。作家田中重弘氏によれば、音楽史上最大の天才モーツァルトは絶対音感の持ち主ではなかったということである。またシューベルトがその晩年に対位法を学んでいたのは有 名な話だ。現代なら、サザン・オール・スターズのオーディションである評論家 は「・・・演奏も下手だし・・・」と否定的見解をのたもうたという話である。 (私見としては、デビュー曲「勝手にシンドバット」の「ララーラララ・ラーラ ラ」というメロディーの発想はまともな芸術的感性の持ち主ならあまりに安易で 俗悪な唾棄すべきものだが、他のメロディーの最後の部分で音を完全に下げずに 止めておくところなど、作曲者の可能性を見抜くべきである。これらのいくつか の発想によってこの曲は完全に救われている。)
 私は(おや、また「俺」から「私」に戻ったよ)、こんな逸話を通して別に 自分たちの凡人意識からくる劣等感を慰めようというのではない。知識と教養は 完全に別であるということを言いたかっただけである。ちなみに一般にいわれる ところの「才能」とは知識ぬきで確認された教養であると言っていいだろう。
 教養であれ才能であれ、創作の源となるという点では、本来ラディカルなも ののはずである。それがメディアであれ教育であれ、教養人のキャラクターはま ず銀縁メガネをかけうらなり風の極保守型人間として描かれている。(予備校講 師がバンカラを気取るのも無理はない。)日本社会全体がそれを強要する。これ は自慢でも何でもないが、私は小学校時代、成績はほぼ学年トップだったが、一 部のライバル以外からは常に馬鹿者扱いされてきた。それは私が秀才らしい行動 をとらなかったからである。ここでいう「秀才らしい行動」とは、喧嘩をしない ことでもスポーツができないことでもない。冷静な物腰とか漢字をきれいに書く とか、人と違った行動をしないとか、そういうことである。それからもう一つ、 これも自慢でも何でもないが、私は中学から高校にかけてかなり足が速かった。 しかしだれも私が足が速いとは認めなかった。この国では、能力があっても、そ れに伴うそれらしい社会的行動をとらないと決して認めてもらえないのである。 そして誤って一度そう決めつけられたが最後、何があってもそのイメージを崩す ことはないのである。「俺はそうじゃない」とでも言おうものなら大変である。 「生意気な奴だ」ということになるだけだ。私は自分の引っ込み思案に見られる 容貌のためにどれだけ決めつけられひどい目に遭ってきたことか。日本人は本質 的にヤクザである。他の国に行くとそんなことは全然ないのにね。
 あなたが自分の判断に重きを置きたいのなら、人からどう認められたなどと いうことは一切無視することだ。というよりも、もし人から認められたら、あな たが教養人から似非知識人へなりさがりかねない危険信号だと考えた方がよい。教養人よ、ラディカルであれ!(言っとくけど、ラディカルって人に優しくすることだよ。)はやく人間にな りたい!
 


20.「絶対」という言葉に対する責任

 先日、懐かしのテレビ番組「サンダーバード」を見ていたら、国際救助隊の 隊長のジェフ・トレーシーが、モノレール会社経営者が「絶対安全」という言葉 を使ったのに対して、「絶対などといいきる人格には注意した方がいい」といっ た趣旨のことを言っていた。三十年以上前のイギリスの子供向け番組である。本 来、このような形で子供たちに価値判断の断片を伝えるのが大人の役目ではない だろうか。しかしこの「絶対」という言葉に対して日本人はなんと無批判なこと だろうか。原発の関係者の使う「絶対」が守られたことがあっただろうか。「絶 対」という言葉の裏には語る人の大変な責任問題が含まれているはずだ。だから 本当は安易に使えない、言葉の最終兵器の一つなのである。そしてこの「絶対」の使い方のうちでも最も困難なのが「絶対な い」という言い方である。一回起きたことならまだそれが法則となってとりあえ ず絶対的であることはあるだろう。一度も起きていないことに対して「絶対ない」というのはこれはまったく体系 的論理からはずれていて、つまりまったく論理的でない。
 早大の大槻教授は、オカルト的出来事全般に対して「絶対ない」と言い切っ ているが、こうした発言はとてもまともな科学者の弁ではない。少し前に超能力者の高塚ヒカル氏が大槻氏のの四十肩を一瞬にして治療してし まった。大槻氏は後にその著書の中で「どっちにしても直ってたんだ」と書いて いる。非常に非科学的である。おそらく教授にしてみれば、かつて宣言したとお り、オカルティズムが実在すれば教授を辞めるといっていたが、彼にすればそれ は「絶対にない」のだろう。今から百年も前にはある学会(確かフランス)にお いて「金属のかたまりが空を飛行することは科学的にあり得ない」という結論が 出されていたという。
 私自身はオカルト信奉者というわけではない。(もっとも、科学で説明でき ないものの一つとして芸術もオカルトだというなら話は別だが。)科学者がしば しば陥る過ちとしての「絶対ない」主義は一般オカルティズムにも言えるのであ る。たとえば、未来予知はあってもおかしくない。少なくとも絶対にないとは言 えない。しかしそれが絶対に当たるということもまた言えないのである。占星術師としての私としては意識的にあまり当てすぎないようにし ている。(はずれたときの負け惜しみではない。断っておくが本質的に西洋占星 術は未来予知の学問ではない。)どうも体に良くないからだ。私が商売として一 対一の占いをやると必ずかかりつけの鍼の先生から「占いやってきましたねぇ」 と当てられる。(こっちの方が占い師みたいである。)人が人の力を超えて安易 な絶対の探求をする時どこかにひずみが生じるのではないか。私の西洋占星学は 、もっぱら芸術や主観の客観性を証明するための方法論であり、広報活動である 。個人はあまり仕事にしたくない。)占い研究仲間の一人に「敏感な体質で占い がたくさんできず大変ですねえ。でも続けるんですねえ」と言われた。彼女は僕 がアンラッキーだと思っているみたいだったが、事実は反対だ。私は基礎抵抗力 があるので、すぐに反応するのである。何も気がつかずに当たる占い師になる方 がよほど怖い。実際、そういう人の死に様はかなり悲惨な場合がある。科学信仰 もオカルト信仰も、そこに「絶対」という判断が混じる限り非常に危険である。 ちょうど戦時中日本中が「絶対勝つ」と思っていたのににている。(でも、絶対 勝つと思わなきゃ勝てないか。)
  何はともあれ、絶対という言葉を安易に使う人物は絶対に信用できない。はやく人間になりたい!

本編「プロム主義」 または 「はやく人間になりたいPart2 」に続きます。

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