プロム主義だ!

     


 シリーズ「早く人間になりたい!」が好評なので「プロム主義本編」と平行 して、このページに追加してゆきます。よろしくどうぞ。


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          シリーズ

はやく人間になりたい!Part2

21.「『エ〜知らないの!?』って言われたくない!」と考えるような大人に はなりたくない!

22.無知な自分に誇りを持とう。「僕、知ってるも〜ん」と言った時点でその 人は知識人ではない。
23.かつて「おじさん」はかっこよかった。 
24.あなたが「性善説」をとるなら、「人間を信じたい」と言うべきではない 。  
25.最悪の教育−−アイドル女優の表彰  


21.「『エ〜知らないの!?』って言われたくない!」と考えるような大人に はなりたくない!


 「『エ〜知らないの!?』って言われたくない!」というコーナーをもつワ イドショーがたしかあった。この企画の是非を唱えているわけではない。むしろ 良い企画だと思う。ただ、タイトルは考えさせられる。
 私は、いやしくも立派な成人ならは必ず誰かから「エ〜知らないの!?」と言われなければいけないと考えている。「エ〜知らないの!?」と言われてはいけないのは、まだ若く人 生に無知であることもやむを得ない学生たちだけである。知識だけではなく教養 としてもものを知らないのだから、責めてはかわいそうなのである。教養(また は経験)を持たず知識(または体験)しか持たない若者たちは、人間の判断や言 動の表面だけをとらえて、大人たちに対して「エ〜知らないの!?」と言うかもし れない。結構なことである。
 その人の知識も無知もその人の歩いてきた道である。たとえば、女子高校生がサラ金のうまい借り方や男のイカせ方を知っていたか らといって、私たちは彼女らの知識に感心したりはしない。彼女たちがいわゆる 悪い道を歩いてきたことを証明するようなものだからだ。同様に、普通の大人が 最新の女子高校生の流行や用語を知っていたって偉くないどころか、むしろ私な ら場合によってはその人を軽視するかもしれない。普通の大人が、子供達の瑣末 的な知識を知らなくても、知らないくらい忙しいのだから立派なことである。こ れって、今話題の「老人力」につながるかな。(そしてそんな忙しい大人たちが わざわざ愛する子供達のために「『エ〜知らないの!?』って言われたくない! 」という番組もまた正しいのである。)
 私としては、子供達の見るゴールデンタイムに「『きみはそんなことも知らないのか』って言われたくな〜い!?」という若 者向けの番組を作るべきだ。(無理か。)
 子供達は早く人間になりたいと思っている。大人も早く人間になりたい。( 言語崩壊)。

22.無知な自分に誇りを持とう。(または「僕、知ってるも〜ん」と言った時 点でその人は知識人ではない。)


 日本の大学や官僚システムは、「あんたたち一般人はどうせわからないだろ 。だって裏の知識を知らないんだから−−僕、知ってるも〜ん」という非常に低 級な意識から成立している。たとえばある大学の入学式でその大学長が「大学は小林よしのりのようなえせ文化人を育てるためにあるのではない」といった内容のことを言 っていた。こんなことを偉そうに言う人間が大学のとりあえずトップに立ってい るのかと思うと、本当に嘆かわしい話だ。私は『ゴーマニズム宣言』の小林よし のり氏の思想について100%賛同しているわ けではない。各分野における専門家 に比べれば知識の薄いところも多くある。しかし、少なくとも彼は自分の頭で考え、主張し、行動している。つまり現代日本のえせ知識人に欠落しがちな行動をすべてやっている。つまり これが真の知識人というものだ。
 直接的間接的に学閥に関わる人々のほとんどが、他の分野の人間に「なんにも知らないくせに」というまさに卑劣な態度をとる。そして小林氏のような表現者に対して、瑣 末的知識について、どこが違ってる云々といった批判をする。小林氏が物を調べ る姿勢を放棄して表現しているというのなら話は別だが、私にはどう見てもその ようには思えない。その上彼は、オウム問題やエイズ問題についてかなりの危険 を冒してまで行動している。彼は元々はこうした各分野の専門家ではない。だか らこそ彼が本当の知識人・教養人だと言えるのだ。知識人とは呼べない人たちも 先のえせ知識人たちも、知識人と言えば、銀縁メガネのイメージで冷静に話す人 間だと思いたがる。(知識人のファッション化である。)しかしそんなことは、 その人の知性に対する誠実さとは何の関係もない。(小林よしのり氏も銀縁メガ ネしてたな−−こりゃまた失礼しました。)
 現在我々が、政治家の動きに常に不信感を感じるのは、彼らがこうした卑劣 な態度をとるからである。だから新聞でもテレビでも不合理な政治的判断が報道 されても、それを直接非難する発言は出にくい。あなたが現在の知識を持って子 供の心にかえったとしよう。一般に報道されている政治的報道の内容について「 おかしい」と思わない事がいくつあるだろう。一般の我々は自分たちが知らない ということがすべて自分たち自身のせいだと思い過ぎている。(テレビと新聞だ けですべてを知った気になるというレベルの人々は問題外だが、)他の仕事に従 事していたら、なかなか別の世界の話に入っていけないのも当然のことなのであ る。一般の私たちは、ただ一つの知識だけを思いこまなければいい。これが最初の情報処理である。自分たちで隠しているくせに、「そんなことも知らないのか」という態度は卑 劣だ。
 大学関係者もまたひどい。特に理科系にそう言えると言ってもさしつかえな いだろう。(というか、文系のひどさは当たり前になっているのかもしれない。 )彼らは本質的に一般のマスコミ報道を一段下に見ていて、(そして実際マスコ ミも多くの場合、そう見られても仕方がないような行動をとってはいるのだが、 )一般の刊行物で多少の大言壮語を吐いても良いと思っている。大切なのは「ネ ーチャー」誌に載る最新の論文だけである。一般の刊行物については「一般人と 遊んでやってる」とどこかで思っている。だから「夢のある話」と称して、そし て大抵の場合研究者としての権威をかざして、たとえば「芸術家の才能も今に脳 医学ですべてわかるようになるだろう」などとなんの論証もないままむちゃくち ゃなことを平気で言ったりする。本当に科学者を自負するなら他の分野について も最低限の尊重をしなければいけない。しかし大抵の場合こうした科学者は芸術 作品などわかりもしないし、そんなことは科学の分野からつかめばそれで良いと 思っている。つまりなんにもわかってないのである。「人間の『こころ』のあり かを探る」といった類のタイトルの医学や心理学の本の大抵がこの範疇に属する 。「こころ」「ココロ」と大合唱するわりには、その「こころ」とはどういう意味なのかを少しでも定義した上で記した科学書はほ とんどまったくない。
 少なくとも一般の刊行物に関するかぎりはホーキングも利根川博士も、人間 の世界観や精神論に関してはとんだほら吹きのようである。これらは彼らの科学 万能主義の迷妄の表れである。彼らがこんな態度を取り続けるかぎり、彼らを過 度に尊重する必要はない。そして自分で意見が持てなくなると決まってこう言う のだ。「それは私の専門外でして・・・。」−−とんだ知識人である。早く人間 になりたい!

23.かつて「おじさん」はかっこよかった。

 
「月光仮面のおじさんは〜」という歌詞に現在40歳以下の人ならみな違和感 を覚えるだろう。(かくいう私もこのTV番組『月光仮面』を見たことはない。 )現代なら「おじさん」がヒーローという発想自体がありえない。しかし、こう して歌詞に残っているくらいだから、少なくとも『月光仮面』の放映された昭和33 〜34年くらいまではこうした価値観が残っていたのだろう。
 私が個人的に知っているものでは、たしか昔の戦争映画かなにかで、小さな 女の子を悪い若者たちから守った軍人が、その子から「ありがとう、おじさん」 と言われ、その軍人が「おじさんはね、みんなのために戦っているんだよ」といった内容の話をしていたのを覚えている。その「おじさん」のニュアンス のさわやかだったこと。つまらない男女の色気や見栄にこだわらず、自分のでき ることやるべきことをしている大人の男の姿がそこにあった。(念の為に言って おくが私は軍国主義者でもウヨクでもない。)しかし、こうしたさわやかな「お じさん」のニュアンスは、現代にはもうなくなってしまった。スポーツ選手など 、子供達から憧れの存在でも、やはりこの「おじさん」の感性は失われている。 (当の選手の前で、実況中継者が呼ぶそのままに名前を呼び捨てにする子供は、 張り倒してやれ。)
 その年になっていない私には本当のところの感覚はわからないのだが、実年 以上(「実年」=この卑屈な用語も信じられない!)の人に孫ができると、自分 から「オジイチャンはね... 」とか「オバアチャンよ」と自分を呼んだりするも のだが、これは孫のかわいさあまってのことである。すなわち、いい年して「おじさん」「おばさん」と呼ばれたくない人たちは、自分たちの 立場から若者たちを可愛いとは思っていない。可愛がるよりも可愛がってほしい と思っているのである。−−これは、欲求不満と自信不足と色ボケだ。(一方、若者たち(特に女子)が「おじさん」「おばさん」と言う時これ はしばしば蔑称である。15歳の娘が20歳の女性に対し「もう、おばさんじゃん」 と言ったりする。これがどれほど愚かなことか、ばかばかしいのでわざわざ説明 はしない。)
 しかし誰しも「おじさん」「おばさん」とは呼ばれたくないものである。だ から日本語が悪い。(結局どっちなんだよ。)ああ、はやく人間になりたい!

24.あなたが「性善説」をとるなら、「人間を信じたい」と言うべきではない 。


 私は静岡県の田舎の出身である。小さい時には母親から、「東京には優れた 人や立派な人がいっぱいいるんだよ」と言われて育った。「そうなんだろうな」 と素朴に信じ込んだ私は自分なりのやり方で、理系・文系に関わらずさまざまな 分野の本を読みあさったつもりである。−−そして東京へ出てみてびっくり、私 が思っていたような立派な人間は非常に少ないのである。卑屈で、人の成功を素 直に喜べない。自分のことばかり考えていて、物を考えない。人の失敗が嬉しい 。人を表面で判断する。表面的言い合いで勝てばそれで本当に勝ったような気分 になる。人のことは恨むくせに自分の失敗には反省をしない。−−あげていけば きりはないが、これらもまた人間の一面の真実である。(田舎も都会も同じだ。 )−−人間がこんなにひどいなんて、いや〜本当にびっくりした。
 「性善説」と「性悪説」のどちらがあなたの考えに近いですか−−そう聞か れたら、私の場合は性善説なのだろう。よく「人類に平和を−−みんなわかって くれるはずだ−−私は人類を信じたい」と声高に訴える類の人が日本には多くい るが、(これは本当は「性善説」とか「性悪説」という以下のレベルの問題だが 、)あえて分類すれば性悪説である。これだけの世の中の矛盾や醜さを見てそれでも無邪気に「人類を信じたい」と 言えるのは、その人類に対する基準や期待が非常に低く、そしておそらく自分に 対する基準も非常に低いので他の同じ類の人たちにも違和感がないのだと思われる。だから彼らは悪い人間を見過ごすことはできても、人間を良い方 向に向上させることは、決してできないのである。もしあなたが人間は善いもの だと信じるのなら、二十世紀末のこの人類の醜態に怒るべきである。−−私はこ のような怒るべき状況に怒っていない人間は信用できない。
 今あげたような「やみくも平和主義者」はともかくとしても「性悪説」とは 本質的に母性的である。それは人間は弱いものなのだから悪いことをしても仕方 がないという考え方と関係している。本当に平和を主張したいのなら、徹底的に 母性的になるべきである。電車の中で誰かに足を踏まれても怒るべきではないし 、人に理由なく殴られても、「恋人(自分の子供)に踏まれたと思えば痛くない 」とでも思わなくてはいけない。いじめられている自分にも「これは自分の優し い気持ちの反面だ」と自己陶酔的自信を持ちたい。
 母性的意見というのは、究極的には「自分は非戦闘員であって力の上で無力 である」と自他共に認める立場の人間が主張するものである。仏門に入った人で あれ妊婦や看護婦であれ、このような人たちは本質的に守られるべき立場にある 。このような特殊な立場に立った人間だけが「人類皆兄弟」「人類を信じたい」 と言って許されるのである。なぜなら非戦闘員である彼らはその賭けに負けた時 自らの命を絶たれるからだ。都合のいい時だけ人類を信じるのは自分の身が可愛いだけの利己主義者である。(日本はアメリカに対して牧師や看護婦でありうるのかどうか。)
 単に日本は平和国家なのだからというよくわからない理由(自分たちでそう 決めただけ)で軍備反対というのは、少なくとも自分だけは人のために自分の命 を危険にさらしたくないと言っているだけである。(そのような人は、まずあな たの恋人の前で「君のために死ぬなんてできない」というべきだ。-- 別にそれ 自体が言ってはいけないことではないのだし。)
 誰だって平和は好きだ。けれども、今の日本人の発想は、「誰だってお金が 好きだ」と言ってはばからず表面だけお金を動かしバブル崩壊を招いた経済人た ちの思想・行動に似過ぎてはいないだろうか。人間は戦争を繰り返してきた。残 念ながら、人に足を踏まれたら誰でも腹が立つのと同じ理由で、戦争が撲滅され る可能性は皆無だろう。長い人類の歴史の中で平和は非常に一時的な状態で、そ こにはそれだけの幸運な条件が折り重なって初めて生じている。だから現在の日 本のとりあえずの平和にもそれだけの条件や理由があるのだ。そしてそれは意識 的に維持しなければいつか必ず崩壊する。軍備も持たず、英語もできず、周囲の 国にはNoと言えない日本の平和は、まさに崩壊寸前のバブル平和なのである。
 少し前にある大学の小論文問題で「自由について述べよ」という問題が出た が、ほとんどすべての学生が「自由の享受にはまず義務を果たさなければいけな い」と書いたそうである。皆が同じことを書いたという画一的発想の是非はさて おき、それに気がついているなら、平和の享受にはまず何が必要か考えてみた方 が良いのではないか。平和な状況で「平和を」と声高に叫ぶのは実は平和運動で はない。(だから巷で「平和運動」と称しているのはほとんどが単なるプロパガンダで、真に平和を 目指す活動ではない場合がほとんどだ。)平和のために自分に何ができるかを真剣に考え行動する のが平和運動なのだ。
 こうして考えてくると、現実の人間はひどいありさまだということはほぼ分 かりきっているのだから、奇妙かつ正当なパラドックスで、現代の私たちにとっ て性善説とは「人間は(本来もっと)善いはずだ」と主張することになり、より よい(より平和な)状況を作り出すために努力をしなければいけないのだ。でも 、努力はしたくない・遊びたいというだけの人は性悪説に甘んじましょう。それ もまたありだ。でも戦争起こすような奴がいてもそれもまた、「人間は弱いのだ からしょうがない」と認めてあげましょう。ついでにその犠牲になり殺されてしまう自分をも、戦場の尼僧よろしく、美化し認めましょ う。 ああ、俺は尼僧じゃない(俺が尼僧の格好したらキモチワルいよね--そうい う問題じゃない)。早く人間になりたい!

25.最悪の教育−−アイドル女優の表彰



 どこかの消防署か警察署の話だったと思う。(うろおぼえですみません。) キャンペーンに起用したアイドルによる宣伝効果が非常に大きかったとかで、表 彰されていた。
 日本はたしかに狂っている! この娘はなにもしてないんだぞ!色ボケもい いかげんにしろ! しかもその娘の感想が驚くじゃあ〜りませんか。
 「うれしい!」
 な〜んも考えとらん。恥ずかしいと思わない神経が不思議である。(君、同じ表彰状をもらった他の人たちは自分の身体を張って人の命を救ったり した人たちなんだぞ。)辞退してこそ真人間だし、もらうにしてもせめて「わたしなんかがもらって 本当にいいんでしょうか?」の一言も言えないものか。これは実に失礼な話だ。 もし私がこの娘の父親だったなら、すぐさま叱りつけて、「返してこい」と言う だろう。芸能人として社会の役にたててうれしいという気持ちが分からないわけ ではない。しかし、この人が本当に人助けに相当する人生の重みを体験したこと があれば、もらえない気分になって当然だ。ただ彼女はまだ若い。喜んでしまう のも無理はないかもしれない。(こんな時「若い」という言葉は便利だな。)
 こうして、表面がちょっとかわいければ、事務所の言う通りにお金を稼いでいるだけで、 表彰状までもらってなにやら良い事をしたことになってしまうという最低最悪の 価値観を、子供達に提示することになるのである。これで援助交際するなという方が無理である。この文は某消防署なり警察署への意見として書いているつもりだが、 その某アイドルにも言いたい。今からでも遅くはない。表彰状は返した方が、早 く人間になれそうだぞ。

本編「プロム主義」 に続きます。

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