プロム主義だ!
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プロム(prom)とはプロムナード(promnade)の短縮呼称で、「散歩」といった意味のほかに、「高校などで催される正式のダンスパーティー」の意味があります。プロムは日本にはない習慣で、このダンスパーティーの時
には教師たちも妻・夫・恋人をつれて参加します。自分の教育論にわかりやすい
名前をつけなければと考えた時、高校留学時代のことが思い出され、この名前に
しました。
ここでお話する内容の根底にあるのは次のようなものです。基本的にはあく
まで現代の日本の状況を踏まえた上での理論です。
書きたいことは山ほどあるので随時更新してゆきます。(ホントだよ。)
本編-1
1.異性の教育論(プロム主義本論)
1.人間の自信の半分は異性からしか得られない。−−プロムのすすめ。
2.日本人は世界でも最も人間を表面で判断する民族の一つである。
3.ビッグバードは大人の性を語れるが、ガチャピンにはできない。
4.「個性的だ」と言われる人間に個性的な人間はいない。
5.マンガはできるかぎり、決まりきったルックスを排除せよ。
2.父性的教育論(父性と攻撃本能の構造)
1.攻撃本能について
2.子供達はこんなに素晴らしい現代日本に生まれたことを感謝しろ
。
3.ナイフ・刃物類は禁止措置にすべきだ。
4.お父さんは『ご苦労様』ではないのだ!
5.現代日本の子供は非常にフツウで、決して冷たくも破廉恥でも非常識でも
ない。
6.教師はクラスの生徒の少なくとも半分に嫌われることができるだけの個性
を持て。
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その人の根源的な自信の半分は、勉強やスポーツ等、自分一人で習得すること
で獲得できるが、残りの半分は異性とのなんらかの実体験からしか学び得ない。
私は英語を教えている。生徒が頑張ればほめてあげられる。生徒はこれでパ
ワー・アップする。英語教育の根本は自信だ。自信が生まれなければ、英語は上
達しない。人間のさまざまな活動は、すべて結果を出すことで自信を得ることが
できる。たいていの場合、家族や友人や学校の先生や上司からの言葉や実際の仕
事や勉強の結果で、頑張ることができる。しかし一つだけできないものがある。
それは異性としての自信である。たとえば私が、ある男子生徒に、「君はりっぱ
でかっこいいよね」と百回言うよりも、通りがかりの水商売のネエちゃんが「ちょっとそこのハンサムなお兄ちゃん、私とどう?」とでも言われた方がよっぽど自信となったりする。この場合ネエちゃんの言葉
が本気であるかどうかはあまり問題にはならない。異性から言われたという事実
自体が重要なのだ。このように教育者としてのみならず、一個の大人として異性
であるという態度は非常に重要なのである。それは女子生徒に色目を使えといっ
ているのではない。まだ子供であっても異性である以上異性として最低限の尊重
をしろということだ。相手を尊重する。その最も根本にあるものの一つが相手の性を尊重するということなのだ。表面的な見かけや一社会や教室の中での立場で人の性の尊重の具合ま
で決まってしまう。そんなひどい文化は早く変えてゆくべきなのだ。
そこでまず、身近な教師たちになにができるだろう。それが中学・高校での
プロムの実行である。大人が率先して、ダンス・パーティーに出てお手本を見せるのである。恋人がいない人は異性の友達でもいい。その晩はレディーとジェン
トルマンとして、子供達に手本を見せる。現代のルックスの基準でカッコよくな
い教師も恋人がいない教師も恥かしがる必要はない。今まで生きてきた結果たま
たま恋人がいないのは、別にその人が立派に生きてきたのならなにも恥ずかしい
ことではないし、異性や見かけなどで人の価値を決められるようではいけないの
だから。
しかし、このプロムの施行は日本においては大変な困難を抱えている。大人
の抑圧された性意識と若者たちのまだ洗練されていないそれがいびつなかたちで
衝突することは避けられないだろう。それでも、やらないよりはいいだろう。風
俗の店や性的な雑誌が子供の目にふれるところでこれだけはびこっている社会も
珍しいが、ここであえて異論を唱える必要はない。(多くの場合、それらが目に
触れないようされている社会の方がさらに大きな性犯罪が行われているからだ。
)しかしそうした性産業の氾濫に対抗すべく、学校でも性教育アクティビティー
を行うべきなのだ。日本では若者たちは、大人がやってくれないものだから、自
分たちでコンパや飲み会を行う。旧態依然とした大人たちはそれを安易に批判す
る。批判している暇があったら自分たちで実行すべきだと私は思う。(大人が教
えてくれないから子供達が自発的にやっている−−(いわゆる)「不純異性交遊」を慣習化した子供達はなんと偉いのだろう。)そしてそのシステムの悪いところがあれば批評し、うまい汁が吸えるところ
があれば利用する。そんな大人たちは実にみっともないのである。
さて先にも少しふれたように、このプロム、実際に施行したら、トラブルの
元となるだろう。これはアメリカにおいてもそうであった。近年、プロムははや
らない。というのも、アメリカのプロムも日本の毎年のクリスマス騒ぎ同様、成
金的オーバーヒートを起こし、高校生がリムジンで恋人を迎えに行ったりといっ
た乱チキ騒ぎが起きているからだ。しかしそれでも、私たちはプロムかそれに似
た行動を起こすべきだ。私たちは、問題を起こす若者のためにプロムを開くので
はない。むしろ問題を起こすことすらできないような、照れ屋で表現法を知らな
い人たちにきちんとした異性とのつき合い方を伝えることが大切なのである。
日本に来ている他の国の人たちと話していて日本人論の核心に話が発展する
と、異口同音に言われるのが、日本人はまるでマンガのキャラクターみたいに表面だけで人を決めつけるということである。
たとえば、私は丸顔である。(丸顔という言い方は本当に顔が丸いかどうか
だけを言っているのではない。「丸顔」という言葉から連想される、社会での外
見によるとらえられ方だと考えてほしい。)私は中学校の頃足が速かった。スポ
ーツも一通りできた。ただ、自分では他に好きなものがあったので運動部に入ろ
うとも思わなかった。しかし、どんなに足が速くても一度「丸顔」に象徴される
キャラクターづけをなされるともうおしまいである。「デブ」「ウスノロ」「ニ
ブイ」「気が弱い」といったキャラクターしか与えられなくなる。それを見てい
た先生の一人が私に陸上部への入部を勧めた。そこで私は入ったのだが、その「
熱血先生」は感動したのだ。「上田!やればできるじゃないか!」−−「なに言ってるんだ?俺は最初からこのタイムだよ」と私は思った。スポーツは好きに決まっている。スポーツが嫌いなのはできないからに決まっ
ている。e.t.c....といった幼稚 な無限連鎖的発想が、当時の私を苦しめていた。小学校の時新しい友達に会った瞬間に「俺は勉
強でも運動でもけんかでもおまえなんかには負けない」と言われたこともある。
(こんなことはしょっちゅうだった。)あまりに頭に来たのでその場で腕をねじ
あげてやった。するとそいつは、「今はちょっと油断したけど」と息をついてい
た。相手のことをわかるだけの教養もないくせに表面だけで人を決めつける。こ
れは差別の一種である。それから私は一目でこちらを差別する人間を、「最も教
養のない人間」という範疇でとりあえずくくることにした。(これは逆差別では
ない。なぜなら、自分を維持するための自己防衛として行っていることだからだ
。)それにしても私がたまたま肉体的に強かったから良かったようなもので、こ
の一つのエピソードの裏には全国の何千という悔し涙があるのだ。その後高校で
私は、あまり強くなかった柔道部員を破り全校柔道大会で優勝するのだが、おも
しろいことに誰も話題にしなかった。つまり、それらしくない奴が優勝してもそ
れは「〜らしくない」のだから無視するのである。
先日松坂投手が子供達に「大人を呼び捨てにするな」と諫めたという。これ
は立派である。TVで見た有名人をTVで見たように扱うのは、もちろんとんだ
幼稚な無教養である。野球選手はまだいい。悲惨なのはコメディアンである。オ
フの日に道を歩いていると突然後ろからけられたりしても怒ることすらできない
というのはひどい話だ。日本人のマンガ的キャラクター的表面的決めつけ主義の
欠点が露骨に出ているのだ。(あんまり「マンガ的」というと、マンガに失礼だ
けれども。)
ガチャピンもムックもいまや国民的キャラクターだが、彼らに限らずとも、
日本の子供向けTV番組のキャラクターは、子供をばかにしてるんじゃないかと
、当時の幼かった私ですら思ったほどに、子供向けの顔でやりとおしすぎるので
ある。というかおそらく、子供向けの顔しかない・つくれないといったところな
のだろう。結果、性の話はタブーだし、子供達は子供らしい子供を演じ、少女ら
しい少女・少年らしい少年を演じ、さらに大きくなれば男を女を演じるのである
。どうしてあんなネコナデ声なんだ?どうしてあんなおとぼけ一本槍なんだ?アメリカのTVキャラクターは子供に対して、きちんとした大人として自分の
答を必ず返しているぞ。そのくせ、ゴールデン・タイムにひわいな話をするのは
平気な芸能人は数限りなくいる。(ただし、ここでも断っておくが、卑猥な話を
する事自体をここでは批判しているわけではない。対比の問題だ。)大人たちは
徹底的に話題を避けるのである。子供達にはこうして性に対するかなり卑猥な感情が芽生えるのである。
さらに正確に言えば、「個性的だ」と言われているだけでは個性的であるこ
との証明にはならないし、むしろ個性的でないケースが多い、ということになる
。2でふれたような 問題は、私が丸顔だということだけに起因するのではない。
日本人一般が認識するところの私の外見とそこから日本人一般が要求するところ
の私の内面とが一致していなかったことによるのだ。そんな時私が彼らのイメー
ジに応じるだけの意志薄弱な人間であれば、私は彼らの価値観におけるヒエラル
キーの最下位に置かれ、彼らから愛されるだろう。しかし、現実と違うものを違
うとするのは個人の正当な権利である。しかも私は声高に「俺はそうじゃない」
と叫んだわけではない。ただ自分から「はい、わたしはノロマで〜す」なんて思
われるふるまいをしなかったというだけなのだ。それでも結果、「なんだかよく
わからないいやな人間」ということになる。そしてこうした人々の言う「個性的
」とは、こうした表面的なイメージに安易に沿う特徴を持っているということな
のである。
したがって日本において「個性を育てる教育」などといわれるもののほとん
どが嘘である。個性が何かもわかっていないのに、それを育てる教育ができるは
ずもない。小学校の時「個性的だ」と言われていた人が今も個性的であるか考えてみれば
いい。おそらくそのうちのほとんどの人が今は「フツーの人」だろう。つまり日本
でもてはやされる大抵の「個性」とよばれているものは単にそのときに状況に調
和していたというだけのことなので、時とところが変わればあっという間に色あ
せてしまう。いわば今はやりの音楽みたいなものだ。(三年前の音楽を「ふるーい」と笑うのは日本人だけだ。)
はやりの男にならなければいけない・はやりの女にならなければいけないの
一点張りの日本では、本当にかっこいい男性像も女性像も父親像も生まれ得ない
。情けないのは母親像だけがあまり変わらないところだ。(変わってくれた方が
まだ良かったかもしれない。)これは、「母と子」という形式感はあるが、「男
と女」(正確に言えば「ジェントルマンとレディー」)とか「父と子」とかとい
った形式感がないからである。
こうした本来人と人とが尊重しあい自分をも尊重するための形式感、そんなものを育てる教育体系を少しでも我々は作らなければならない。これ
がプロム主義のポリシーでもある。
マンガの最大の欠点は、画像の記号的構造による、キャラクターのステレオ
タイプ化である。つまり単純化された線の集合体であるがゆえに、「太ったキャ
ラクター=鈍い・おっとりしている」、「メガネのキャラクター=秀才・スポー
ツが苦手・根性がない・ずるい」といった一元的なキャラクターが与えられやす
いのである。(単一民族・単一文化国家である日本において最もマンガが栄えた
最大の理由はまさにここにあるのだ。)
しかしそれ以上に驚くべきことは、こうした表面的ルックスからの一方的な
決定がもっともひどいかたちで見られるのは、若者というより、現在の50代以上の世代であることだ。もちろん彼らはその人生経験と高齢ゆえの許容力で、一見こう
した特徴を意識的無意識的にカバーしている。しかし、ひとたび同じ土俵に立て
ば、いかにこの世代以上の人たちが、人間を一面的に見る文化の上に育ってきた
かは明白である。彼らはマンガ世代の始まる一つ前の世代である。ここで私が言
いたいのは、日本人の一面的な人格決めつけの習性はマンガによって生まれたも
のではなく、むしろマンガはこうした文化の特徴を生かした表現分野だというこ
とだ。
そして若者の間ではいまだにこの一面的な決めつけは当たり前である。ファ
ッションが過激なのは結構である。しかし自分の健康を害してまでやせたがった
り、自分の属する民族のアイデンティティーを捨てて髪や肌の色を変えたがる若
者たちの間で流行している感性は、あきらかにファッションの領域を逸脱してい
る。これは他の民族の目には、異常に不まじめであるか、自己崩壊作用にしか見えないのである。これらはすべて外見さえ変わればOKと思える自分
がいることを明らかにしている。(また、非常に不思議なことに、私の経験上の
情報だが、髪の毛や肌の色を過激に変える若者特に学生ほど発想は保守的で、私
には先の現在50代以上の世代の文化を想像させる。あくまで経験上のデータで
下手な論理的裏付けは意味がないのだが、外観から変えようとする人たちは内面
の個性が後回しになっているという場合も多いだろう。)しかしそれでも、念の
ために言っておくが、私は別に茶髪否定派ではないのだ。特に社会人の茶髪の友
人は私にもたくさんいるし、特別何が違うとも思わない。(それにもちろん50
代以上の人で革新的な人生の先輩も多くいる。)
かつて細野不二彦氏が『さすがの猿飛』を発表した時、わたしは「ようやく日本の文化作品もここまできたか」と安堵
したものだった。主役の猿飛は肥満児である。太った子供が主役であること自体
が珍しかったのではない。彼が同時に並ぶもののない敏捷さと知恵を持つ非常に
すぐれた忍者だったことだ。私はこの後、さまざまな変わったルックスをもつさ
まざまなヒーロー・キャラクターが生まれてくれるのではないかと、楽観的に想
像した。しかし、哀しきかな、これに続く作品は一作も現れなかった。日本のマ
ンガは今もデブはおっとりして鈍く、メガネはつめたい秀才である。ああ、情け
ない、情けない。だから、マンガはすぐれた芸術作品でありながら、ばかにされ
るのだ。結果的に日本の現在も変わっていない。描写に、そのルックスとキャラ
クターの間に深い洞察が自然と必要となるような性質が表れてくれば、マンガも
芸術作品としてのステータスをまずは獲得することになるだろう。同じく日本人
もまた、この驚異的な表面主義から抜け出せれば、真の国際人としての個性を獲
得することになるだろう。
外国で生まれ育った人間の目から見た日本人の異常な見かけ主義をあらわし
た文学作品にデビット・ゾペティの『いちげんさん』がある。この作品は第二十回すばる文学賞を受賞した作品で、たいていの図書
館には置いてあるはずだ。一読をお勧めする。
人間は生まれながらにして攻撃本能を持っている。これは男の性欲などと同
じでこれはどうしようもないことだ。(「どうしようもない」とはもちろん「だ
から野放しにしていい」ということではない。)世の中が保守的で(一見)平和
な社会になればなるほど、人間の攻撃本能は行き場をなくしてしまう。本来攻撃
本能は、食うや食わずの時代に獲物をとらえたり、苦境の中を生きのびたり、ま
た悪い状況を破壊し淘汰するのに重要な役割を担っていた。その重要性は人間が
人間の肉体を持つ以上、今日も変わらない。それなのに、この攻撃的感情は表面
的には異常に白眼視されている。そして正常な発散の場所を失っている。その結果、抑圧された攻撃本能は、時を経るにしたがって一つの最悪のかたち
で吹き出すのである。それがいじめであり、虐待である。中国の五行説でも人間
の性質を「守備」「伝達」「魅力」「攻撃」「習得」の五つに分けている。しか
しこうした先人たちの知恵は生かされていない。
先日アンパンマンが暴力をふるって事件を解決していることを批判している
本を読んだ。私は子供向けの作品にある程度の戦闘シーンやエッチ・シーンが入
ることは賛成である。人間が本来持っている攻撃本能や成長してから生殖本能に
つながるような本能を無理に抑圧したって、問題はいっこうに解決しない。戦闘
シーンなんでも反対主義は、母系社会の無責任な価値観のおしつけであり、子供
達にはなんの解決にもならない。戦闘シーン反対を過度に主張する人は、まず通
勤電車の中で飲んだくれて迷惑をかけている大男に、「そんな行為はやめなさい
」と忠告できるようになってから、主張しよう。できるわけがない。(私だって
できない。)そんなところでけんかになって殺されでも(殺しでも)したら割に
合わない。つまり大人は社会で戦闘(この場合ガタイの大きい強そうなイメージ
)以外に力強いものを、子供達に表現できていないのだ。そして表現できていな
いことに無責任でいる人間ほど、まさに無責任な暴力反対教育をするのだ。自分
の身は自分で守らなければならない。その正しい意味を取り違えているのだ。戦闘シーンだけをやみくもに否定する態度は、心の奥底で「自分だけは平気だ
」と思っているし、いつもだれかに守ってもらおうと思っている人間の態度であ
る。
国民の大半がとりあえず飢え死にすることがない。--これだけでも人類史の中でもまれにしか見られないことである。ホームレ
スの人間がゴミ箱をあさって生きていけるのである。日本史の中で飢饉や犬のよ
うに殺されるといったことがなかった時代があっただろうか?海外においては現
在でも人はバタバタ死んでゆく。アメリカであれ発展途上国であれ、私が海外に
行って受ける感想は、「人はすぐ死ぬ・死にやすい」ということである。(だか
ら海外へ無銭旅行などを企てるのは、生きる苦労を知らないボンボンの考えるこ
とで、冒険などではまったくない。ディズニー・ランド感覚である。)平和そうな国でも病気や災害など、こち
らに情報として流されない困難は当たり前に存在している。よくTVの海外の特
集などで「平和そうだな」と思わせる異国の風景が出るが、美しく見えることや
幸福に生活をしている情景が即「平和」を意味するとは限らない。一番平和なの
はそのTVを見ている我々なのだ。若い女の子が夜の九時や十時にひとり歩きで
無事に帰宅できる都市が他にあるだろうか。他の国でも都市部でなければ危険の
確率は減るが、その代わり万一誰かに出会ったらそれでおしまいである。平成日
本は驚異の平和国家である。よく大人たちが、「こんな時代に生まれてくる子供
はかわいそうだ」というがそれは違う。「こんなに平和な時代なので子供の生きる苦労を見るのはちょっとかったるい
かな」というのが本当の感情である。生きる苦労はいつどこにいてもつきまとう。平和な環境ならそれはぐっとマシ
になるが、それでも自殺者やその他の死者は後をたたないし、先にもふれたよう
に「平和」イコール「幸福」ではない。 多くの日本人は単なる平和よりも心の
充実を求めているだろう。しかし平和というものが心の充実を満たす非常に重要
な条件となることを実感できない限り、あなたの精神活動はいにしえのローマさ
ながらの飽食日本におけるまさに飽食的社会現象の枠を出ることはないだろう。
よく学生たちと話していると、「根本的な問題は解決しないのだからナイフ
を禁止したってしょうがない」といった意見が必ず出てくる。見当違いもいいと
ころである。ナイフ・刃物の禁止は根本的問題を解決するためにやるわけではな
い。根本的な問題解決のためにこのような議論をしていると思っているならキミ
たちは本当にアホだ、と言ってやりたい。今は死を食い止めることが優先課題だ
ということだけだ。「他のけん銃だの麻薬だのの問題があるじゃないか」という
のもアホである。根本的に悲観論(というか絶望論)であるし、それじゃ、全体
の問題が大き過ぎるから部分的なことは何やっても無駄だと言っているだけであ
る。しかし刃物類を禁止すれば、一人でも二人でも刃物で殺される子供は減るのだ。それは間違いがない。だから禁止すべきだ。
よくバイク肯定派の中には、「バイクはこの平和ボケした現代において数少
ない生命のスリルを味わうことができる貴重な趣味である。これをやみくもに否
定するのは安全第一主義の母性に甘やかされた価値観にもとづいている」という
人がいるが、これはかなり無理がある。私にはこうした発言の方が「安全第一主
義」かどうかは別にしても「母性に甘やかされた価値観にもとづいている」よう
にしか思われない。仮にもしあなたが、空爆の絶えないどこかの村で暮らしていたら、あえてそん
な生命のスリルなど味わいたいと思うだろうか?つまりスリルを味わいたいというのは、実は平和ぼけした環境で平和ぼけして
しまった人間のせりふなのである。平和ぼけした環境でも、生き抜くためにさま
ざまな困難と戦いを見いだすことはできる。むしろ文明国家におけるサバイバル
の方が精神的にハードな側面すら持っている。バイクにでも乗らなければ生命の
スリルを味わえないなんて、とんだボンボン坊やである。一応念を押しておくが
、私は特にバイク否定派というわけではない。しかし次の二点を主張しているだ
けだ。つまり、まだ自分で生活を立てていない学生が、自ら危険な行為を犯すの
は無責任でしかも甘い。そしてバイク肯定派は自分の欲望の肯定のために上記の
ような稚拙な論理を偉そうに語るべきではない。
これと似たものに、冒険野郎がいる。人類のための調査・研究が目的の探険
隊でない限り、探険家は道楽である。バイクと同じだ。私は冒険野郎を非難しているのではない。本人が好きでや
っていることを非難する権利など誰にもない。また彼らに企業のスポンサーがつ
き、宣伝になったとしてもそれが悪いとは思わない。しかし、ただ一つ言えるの
は、冒険はいまや、別に偉大な行動でも何でもないということだ。自分の好き勝
手に危ないところに行って、行方不明になればヘリコプターが飛び、最悪の場合
本人以外の人間まで命を落とす。こんなものは真の冒険ではない。本人が好きでやっているから肯定されるだけで、別に偉くも何ともないのだ。それをまるで偉業のようにたたえるマスコミが悪い。こうした冒険をな
にか価値のあることだと錯覚するところから、「思想的軍人」が生まれてくる。
戦争も始まる。(よくわからないという人はこれを機会によく考えてみて下さい
ね。)彼らの名誉のために繰り返し言っておくが、私は冒険家たちを非難してい
るわけではない。自分たちのやっていることが孫への自慢話の一つくらいにはな
る代物であるということは、数々の困難を克服してきた彼ら自身が一番よくご存
知のはずである。
ゴールデン・ウィーク中とか、ワイド・ショーなど見ていると、必ず「お父
さん、ご苦労様」的調子の映像が流れる。休みの日にまで疲れた体にムチ打って
家族サービスをする父親たちをいたわるドキュメントだ。この企画自体に俺は文
句をつける気はない。しかし果たして、あの映像を見た若者や子供達の何人が『僕もあんなお父さんになり
たい」と思うだろうか?本来立派であるべき存在を結果的に立派でなく大衆に伝えているという点で公
害である。問題は「ご苦労様」という口調の中に、損な役回りを哀れむ調子があ
ることだ。父であることがカッコ悪いみたいじゃないか。父親であることはカッ
コ良いのだ。「とうちゃん、かっこいい」というCMがあるが、これは多少良い
かもしれない。(しかしなぜか説得力やインパクトを感じないのはなぜでしょう
ね。)
父親像といえば、私は最近マンガ評論をやっているのだが、劇画の巨匠白土
三平の有名な作品にTV化もされた『サスケ』がある。ここに出てくる主人公サスケの父親大猿大介は、すばらしい父親像の一典型である。史実上の真偽は別としても、父親の強
さと愛を信じなければ生きてゆくことさえままならない忍者の子供の目から見た
父親像がいきいきと描かれている。このお父さんに誰も「ご苦労様」とは言わな
いだろう。仮に言える人がいるとすれば、死んでしまったサスケの母親だけだろ
う。「ご苦労様」を連発するTVドキュメントは、まさに総母性化時代の価値観
の反映だ。(他に言える言葉がみつからないから言ってるだけかもしれないけど
ね。)繰り返しになるが、私は「ご苦労様」という言葉が悪いと言っているので
はない。父親には「ご苦労様」と言っておきながら、女子校生ネタの表面だけの
アトラクションを丸出しにしているTVワイドショー、それらに象徴される、現
代日本の大人の価値観による言葉の不適切な使用法について言っているのである
。父親も母親も家庭のゴミ清掃人夫ではない。家族の他の人間に「辛い仕事を家
族の生活のためにやっていて偉い」という発想をいつまでも持っていると、いず
れとんでもない文化的しっぺ返しを食らうだろう。
マスコミがあおるので、若者達・子供達は自分たちが特別な現代的な存在だ
とでも錯覚し、結果的にうぬぼれている。かれらに言おう。
「現代日本の若者たちよ、きみたちはフツウだ!−−しかもスゴくフツウだ」
世界最古の言葉の記録が「この頃の若いもんは・・・」という文句だったとどこかで聞いたことがある。(本当か誤りかは知らないが
)。このように、人間とは若者を嘆くようにできているのだ。その口車に乗って
自分たちがさも深刻な異形であるかのように言うのは、単に若者たちのおつむが
弱いだけである。これは教養の問題である。十九世紀のパリでは、貴族のつまら
ないアクセサリーのために体を売る無知な少女など五万といたことは記録にいく
らでも残っているし、ドストエフスキーも、ついさきほどまで涙を流して説教を
聞き懺悔していたその直後にその聖職者をたった一切れのパンのために殺害でき
るのがロシア人だといった内容のことを言っていた。だが、実は援助交際も少年少女による殺人もそれほど歴史の上で珍しいというほどのもの
ではない。それでもなお、われわれが大きく取り上げるのは、他にそれがとんでもないこ
とであるということを別の世代に伝達するすべをしらないからで、別に若者たち
が自分たちのことをとんでもない時代のとんでもない新人類だと思う必要はまっ
たくないのである。むしろ昔からやっていることを繰り返しているのだから旧態
依然とした精神構造のあらわれだと考えても、あながち間違いではないのである
。
一人の人間が思いつめて(または思いつめないで)一つの凶行に走るまでの
プロセスはさまざまなものがあり、十把一からげに語ることはできない。それで
もその一部においては、自分たちが特別なことをしていると信じたい若者の浅薄
な心理が反映し拍車をかけている例は確実にあるだろう。だから、若者たちは、自分たちがいかに平凡であるかを認識すべきだ。オヤジ狩りだの援助交際などは、平和ぼけ時代のクソムシみたいなものであ
る。
私が初めて高校の教職についたのは、それは前任の教師が二週間で逃げ出し
た後という最悪の環境だった。(この高校は首都圏の大学の付属校で、いちおう
一流高校といってもおかしくない。)愚かな学生たちは逃げ出した教師をせせら
笑い、私を次の血祭りにあげようともくろんでいた。私はどうだったかというと
、そのうちの何人かを半殺しの目にあわせてやりたいと願った。(しかししなかった。それは私が大人だからだ。一方私は彼らにそ
うされる可能性は十分にあった。なぜなら彼らは子供だからだ。)私は教師であ
る前に人間なので、このような感情を持つのは当然なのである。持たない(持て
ない)人間が別にりっぱな教職者だとは限らない。おそらく同じような目にあっ
てきただろうと思われる先輩先生が、「まったくワンパクな子供達で・・・」と
もらしたのを覚えている。彼はこの地獄の中で生き抜くために大人以上に暴力的
なこうした生徒たちに「ワンパク」という飛躍した形容をすることで自分をごま
かしたのだった。多くの教師がこうした苦境に直面してるのは今もまた変わらな
い。人間である以上苦境はどこかでごまかさないとやっていけない。だからこう
した教師たちの態度はやむをえないものだ。でも、教育の場でごまかしてばかりいると、ごまかした結果は若者たちの精神に跳ね
返ってくる。そしてごまかさないでいるためには一対多の血みどろの悲壮な戦い
をしなければならない。(実にかったるい話である。)
私は多くの生徒から嫌われただろうがそれは私が一個の大人としての勲章で
ある。先の章「ビッグバードは大人の性を語れるが、ガチャピンにはできない」
になぞらえて言えば、私は日本の教育の場に放り込まれたビッグバードだったこ
とになる。彼らはガチャピンを求めていたのだろうが、私はビッグバードだった
ので、一歩も譲らず自分流にやらせてもらった。自分流のやり方などマニュアル
に沿ったやり方に比べ、なんとなく欠点が目につくので余計に非難の対象になる
。けっこうなことである。
そつないマス教育の時代は終わった。我々一人一人が成人の代表としていび
つな行動をとらないと間に合わない時代が来た。一人の教師がマニュアルに近い
教師になるかそれとも人生における先輩として自分の生き方を見せることを先行
させるか、各人の選択に任せてよい問題だが、過去の政府高官についてマニュア
ルに近いものがあるとすればそれは守らない方が、良い官僚だろう。
今の私はといえば、今でもむかしの生徒たちがかわりばんこにやってくる。彼
らはあまり当時のクラスの話はしない。せいぜい「あの時はしんどかった」くら
いの感想である(私も同じ感想)。たいていの学生は私が彼らの年に何をしてい
たかとか、その他人生相談である。かれらは私の教えた生徒のほんの一部である
が、これでいいのである。学校ですべての生徒に好かれる先生になり得るのは中
学一年までである。それ以後そんなことがあれば、生徒か教師のどちらかがそれ
以上に大きな問題を抱えている場合だけである。
続編(英語教育論とその他の教科の教育論)は次ページ。
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