プロム主義だ!
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本編-1
1.異性の教育論(プロム主義本論)
2.父性的教育論(父性と攻撃本能の構造)
本編-2
3.英語教育論
1.文法英語礼賛
2.英会話と英語は日本人の頭にとってまったく別の勉強である。
3.そしてなにも変わらなかった−−LL教室の出現と衰退
4.英語のネイティヴ・スピーカーは英語がよくわかっていないということを
わすれるな。 (ましてや英文法なぞとんでもない。)
5.中学三年まではbe動詞を教えるのはやめよう。
-------ここまでできてます----------
4.その他の学科と教育論
1.子供達のために、授業はもっと難しくしよう。
2.社会科の夏休みの課題はマンガにせよ。
3.個性を伸ばす問題などありえない。
4.社会科の教科書はみな実例にせよ。
5.社会科の授業には、保険・年金・建築
6.道徳・倫理社会の授業を増やせ
7.ゆとりの時間について
8.夢のない子・夢のある子
9.数学の教科書の全面改定をめざして
10. 「新聞」という新教科を作ろう。
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「英語は結局話せなければしょうがないのだから、文法なんてやっても意味が
ない」という考え方が主流の一つになっている。こんなことを言う若い学生が言
うのはまだわかるが、りっぱな教育者まで平然と言い出しているのには本当にあ
きれてしまう。「英文法は役に立たない」というのは、勉強したくない人間の逃
げ口上である。私が初めにアメリカに留学した時に心の底から痛感したのは、英
文法の力の不足だった。「ああ、文法をもっとやっておけば良かった!」と心の底から思ったものだった。それは一日本人学生としてプライドを持って
相手と討論したいと思った時に、私に明らかに欠けていたものだったからだ。
日本人が英語がしゃべれるようになりにくい理由は英語の教育システムばか
りのせいではない。少なくとも学校の教科としての文法の責任ではない。日本の
英文法の教科書は非常に良くできている。この私でさえ留学中アメリカの高校で
英文法の成績はクラスで一番だった。(「キョーヤ、おまえ、英語できるなあ!」とアメリカの同級生たちにからかわれていた。)しかしそれでも私が自分の英
語文法力の不足を感じていたのもまた事実である。
私たち日本人の大半が意識的無意識的に横文字文化に対して劣等感をもって
いる。英語で話しかけられて答えられないと、その劣等感が刺激され、社会人で
も「やっぱり英語ができなくては」とか「留学しよう」等と考える。また、間違
いを嫌う日本人の性格も助け、会話のスムーズさを重視し過ぎ、聞き返されるの
を嫌う。(要するにペラペラ話せることがカッコいいと思っているイナカモン感覚だ。)そして、−−なにせ自国文化ではないのだから−−、もしネイティブに
聞き返されたりすると、「自分が間違っているのかな」と内心思ってしまう。で
も確認するすべはない。日本の学生の場合ならせいぜい留学で海外の文化に慣れ
親しんで、向こうでその表現が使われていることを確認することぐらいのことし
かできないだろう。そんな時に頼りになるのが文法書だ。自信のない日本人は文
法書のとおりに英語を使って、自分のしゃべっている英語のよりどころを明確に
すべきだ。さもないと本当の意味での「ジャパニーズ・イングリッシュ」は育た
ない。いつもアメリカやイギリスで話されている表現を意識しながらその後を卑屈に追いか
けることになる。もしネイティブに聞き返された時心の中で「勉強した文法書に書
いてあったのだから、間違ってはいないのだ」と思うくらいの度胸をもてるよう
になろう。そのためには英文法の勉強なのだ。仮に現在使われていない言い回し
があったとしても日本人が大挙してアメリカやイギリスで使えば、それは「ジャパニーズ・イングリッシュ」としてその言い回しは復権を果たすかもしれない。あなたは共通語たるべき言葉の表現の正否を全面的に相手の判
断にゆだねているようでいいのか。日本にはよりどころになる真の英語文化はな
い。それなら文法書にしがみついて自信の源にするのもまたいいのではないだろ
うか。
「文法は役に立たない」−−そんなセリフは勉強したくない学生たちの言いぐ
さだ。その口車に乗ってはいけないのである。私は、よく英語の得意な学生たちに「
そんなに英語、得意だったら留学すればいいじゃないか」と勧めるが、そんな時
「はい!」と言わない人の理由の大半は「もっと文法を勉強しないと自信がない
」というものだ。その判断の是非は別にしても、英語を本当に勉強している人の
方が安易に英会話に走らないというのもまた一面の真実である。(これと対照的
なのが、何も考えずにお金だけためて、海外に留学するOLたちで、これは「英
語がしゃべれるような気分になっただけ」の、お遊びである。再就職の際には役
に立たない。)
よく考えてみていただきたい。仮に今あなたが英語を話せないとする。でも
仕事も忙しいし限られた時間で自分の能力と今までの教養を最大限に生かしてそ
の言語をモノにしたいと思う。また状況的には、近い将来海外の人間と討論した
り契約書をかわしたりする必要に迫られている。そんな時、最初にすることは何
だろう?−−それこそ文法の勉強なのだ!−−そしてこの場合、海外留学は、最
後の「敵地偵察」である。)言語の勉強もせずにその言語の土地に行くのは、そ
の国の文化に失礼だ。(日本に来ている外国人を見ていて我々もそう感じている
ではないか。)
戦前の教養人たち、たとえば夏目漱石や森鴎外は日本での勉強だけで、いき
なり留学をしている。そして取るものもとりあえずモノになっているのだ。(実
のところ漱石は文化的劣等感のためにノイローゼとなり、鴎外も悲恋を経験した
りしたが、これは外国語を学ぶ姿勢とは別の問題なのでここでは割愛する。)彼
らを支えていたものは何か?それは戦前日本人の大和魂である。強大な文明国家
の脅威−−それは今の私たちが欧米諸国に感じるものとは比較にならないほど強
力だったことだろう。しかし彼らにはこれから世界に乗り出す日本国の一員であ
るという意識とプライドがあり、その根底にはなにはともあれ動かしがたい日本文化に対する愛があった。だから昔から英語が話せる人間は話せたし、今でも話せない人間は
話せないのである。私はウヨクでも国粋主義者でもない。しかし、自国を守る軍
を持たず、さりとて英語も話せない現代日本人の国民性を見ると、これで本当に
いいのかと心の底から疑問に思うのだ。現場の教師たちは、英語を教える際にな
にか大切なことの伝達を忘れているのだとも言えるかもしれない。(「そんな余
裕ないって」という話もある。)
文法書に書いてあるとおりに話せば、英語は通じるのだ!そして聞き返され
た時にはこう言ってあげよう。
"Hey, you had better study Japanese English!"
(おい、ジャパニーズ・イングリッシュ、勉強しとけよ!)
こうやって喧嘩を売れば、少なくともアメリカ人は笑ってくれるだろう。
英会話は、英語の勉強とは違って、単なる慣れである。無学な私ですら、留学後半年で日常会話は不自由なくなったし、一年後日本
に帰ってきた時には、日本語を話すと同時に頭の中に英語のテロップが流れてい
た。これは本当に単なる慣れである。自分の知っている英語の知識がうまく活用
されているというだけであり、話しかけられたらぱっと返事ができるというだけ
の話である。こんなものだけでは真の英語力とは言えない。逆に言えば、海外で
現地の人と生活を共にすれば、絶対にその土地の言語は会話レベルでは話せるよ
うになるのだ。しかし、それは「相手に受け入れられ、わかってもらっているだけ」と言った方が正しい。
数年後独学でみっちりと英文法と単語をマスターして久しぶりにかつての高
校留学の地アメリカ・マサチューセッツ州の町へ戻った時、ホスト・マザーに最
初に言われたのが、「あなた、英語うまくなったわね」という言葉だった。よう
やく私はいまここで書いているような内容をそのニュアンス通りに英語で伝えら
れるようになっていた。
本当の英語の勉強は話せることよりもまず読めることである。そして作文が
すらすらできるようになることである。こうすればほとんどの英語文化は日本に
いながらにして吸収できるし、それができる人間が自信を持って英語を話すこと
ができるようになるには、ほんの三か月の現地練習でOKである。
かつて、ある放送関係の仕事先で、その担当者の一人が、「自分の友人の大
学講師は英語を教えているが英語はできない(ここでは「英会話ができない」の
意味だろう)、あなたも本当はできないんだろう?」と失礼な言いがかりをつけ
られたことがあった。その時の私はアメリカから離れてすでに五年以上もたった
ころで最も英会話から遠ざかっていた時期であった。その時、なんと答えたかは
忘れたが、もちろんこの放送関係者は英語やその他教養という類のものにはまっ
たく縁のない人だったし、とにかく(私のいつもの、見かけで決められる迫害パ
ターンで)「どうせできないんだろう」とばかにされていたのだろう。英語がで
きない人に限って、英語と英会話の関係の認識にとんでもない間違いをしている
。どんなに英語がすらすらとできる人間でも、現場から数年離れれば、条件反射
的な会話能力はかなり低下して当たり前である。当時の私はつまり英語はできる
が英会話が遅いという状態だった。しかし英語の教養はあるのだから、短期間の
練習ですぐに実戦に復帰できるのである。このように、ガイジンとペラペラやってるアクション自体がカッコいいと思っているレベル
の人間が、英語教育を間接的に悪くしているのである。それに日本では外国人も日本人も日本語を話せば良いのである。
よく「オレのアニキはニューヨークに行ってワイルドな生活送ってるんだぜ
」という人がいる。(もちろんアメリカで本当に頑張っている人はいっぱいいる
ので、そのような人たちに失礼にあたらないようにこの例はよくある一部の例で
あることを確認しておきたい。)こうした「ワイルドな生活」の大半はその実態
と同様のものをあなたは日本でも見ることができるだろう。渋谷や上野にたむろし、違法テレカや麻薬を売っている外国人である。あなたたちは彼らをカッコいいと思うのか?彼らは、条件反射的会話という意味では日本語もかなり話せるだろう。でも、
自分にかかわりのない日本語文はまるで読めないだろう。このような人たちにつ
いて、私たちは「立派に日本語を話せる」とは言ってはいけないのである。彼ら
は自分の国の代表者として日本に来ていない。
英語は「いくら勉強しても話せなきゃしようがない」というのは一面の真実
だが、また「いくら話せてもきちんと読み書きができなければしょうがない」というのもまた真実なのである。そして前者はただ慣れるだけでできる。し
かし後者は学ばなければできないのである。
日本人は最も英語を習得しにくい国民だという説がある。欧米の多くの国、
特にゲルマン系言語の国では英語など母国語の一方言のようなものだし、他のア
ジアでも中国語などは主語と動詞の配列は英語の文型と同じである(漢文の時間
にレ点を打ったのをご記憶だろう)。
1970年代、LL教室が全国に広まった。いつまでたっても話せるようになら
ない英語教育への反省からの新しい試みで、「これで多くの高校生が英語を話せ
るようになるだろう」とまで言われていた。しかし、現実は何も変わらなかった
。考えてみれば、学生たちの現実と直接つながりのない内容の会話をテープで聞
いたところで、それは「クラい」独白作業に過ぎず、よほどの目的意識のある学生でなければこれを活用することはでき
なかった。自分の発音を録音して自分で聞き直すという作業に至っては、−−大
体本人自身が発音の聞き分けができないのだから、ネイティブの発音にどの位近
づいたかなどわかるわけがないのだ。「これなら、英語の映画やレコードでも聞
いていた方がずっとましだ」というのが当時の私の意見(−−というか逃げ口上
)だった。
当時私は高校の英語部長だったのだが、部費は「視聴覚資料」という名目で
可能な限りレコード購買に費やした。そしてLL教室は昼休みの遊び場に過ぎな
かった。機械は一年に数回しか使われることはなかった。英会話のテキストは(
ここで説明しているのとは別の意味ですぐれたものは多数あるにしても、)なん
とか学生たちの関心を引こうと、小話や笑い話がおさめられていたが、それらが実につまらなく退屈なのである。「こんなもので笑えとでも言うのか」という
気分になった点では現在の『笑点』顔負けである。(ちなみに当時の『笑点』はおもしろかった。)ただし、このLL授業のつま
らなさは、テキストのせいばかりではない。どんなユーモアだって話す教師の口
調一つですべては決まってしまう。ユーモアのかけらもない人格がアメリカン・
ジョークを教えなければならないところが教育場におけるジレンマなのかとも思
った。それにもともとテキストとはつまらないものである。つまらなくていいの
である。英語の学習のポイントはいかに劣等感とストレスを感じないようにする
かが重要な鍵になるが、ストレスを減らそうとしてユーモアをまじえようとした
結果、全体としてはかえってストレスを増強する。アメリカン・ジョーク自体が
つまらないものに見えてきてしまうのだ。下手なジョークはどこでも逆効果であ
る。
LL教室出現の後今度はネイティブの講師を学校に招くシステムができた。
しかし招く側の体勢も招かれた側の準備や資格もとても十分なものとは言えなか
った。そしてその問題は現在も続いている。学校側はいまだに外国人講師を青い
目のお客さんとしてしかとらえていない場合も多いし、また一方ネイティブ講師
のうちかなりの比率の人がとても日本人学生を教えられるような技術も教養も持
っていない。(それでいて、日本人と違っていっぱしのことを言うからやっかい
だ。)
たとえばひとつのパターンとして、日本の英語教育事情にふれたネイティブ
講師は次の二つの意見を自己矛盾に気がつかないまま交互に繰り返すことになる
。
a.They say 日本人学生は細かい文法事項にばかりこだわっていて、英語は要す
るに意味が通じさえすればいいのだということがわかっていない。(この意見はたいてい " ...fail to see the woods for the trees"「木を見て
森を見ず」という言い回しを知っているかという切り口上から始まることが多い
。)
−−これは先の項でふれたとおりである。学生たちは自分たちの使っている
英語を正しいとする判断のよりどころが見つけられない。だから文法の瑣末的な
事がらにこだわる以外の方法が残されていないのである。そしてだいたいのネイ
ティブ講師は「そんなことはどっちでもいい」といった答えをするが、それは学
生たちには不安の種であり、より英語に対する自信をなくさせるだけである。そ
してネイティブだってたいていの場合、どっちでもいいことはわかっても、どう
してどっちでもいいのかは説明ができないのである。そして「英語は生きている
言語なんだから、英語のセンスをつかむことが大事だ。例外もあるし要するに通
じればいいんだ」というのである。
b.They say日本人は日本人の語感で勝手に英語を使い過ぎる。
−−「臭い汗」というイメージの「ポ☆リ・スェット」とか「牛のおしっこ
」という風にしか聞こえない「カ☆ピス」そして「変態っ子」という意味にしか
ならない「キンキキ☆ズ」などに対し、確かな日本語的根拠のあるものもないも
のも十把一からげに、このえせ横文字文化の中に突如入ってきたネイティブたち
が拒否感を示すのも多少はやむを得ない。しかし、学生たちが間違った英語を話
した時に、「日本人は日本人の語感だけで言葉を使い過ぎる」と批判するのは間
違っている。そしてここまで言うネイティブに限って、文法にこだわる学生をも
「木を見て森を見ず」だと批判するのである。
この1と2の主張が互いに完全に矛盾しているのは明らかである。一方は、
英語はセンスだ、通じれば良いんだと言い、もう一方では英語はセンスではいけ
ない、文法があるんだと言っているのである。しかも後者の場合、おそらくネイ
ティブにしてみればどうして「ポ☆リ・スェット」という名前が浅はかにもつけ
られたかというところは察知しているだろう。ということは、彼らにも「ポ☆リ
・スェット」という名称の伝えたいところは実はほぼ正確に伝わっているのであ
る。彼らはそれが「愚劣で我慢がならない」と言っているだけである。要するに
すべては無意識的に話せる立場に生まれ育った人間による、いわば「強者の論理
」である。
このような認識水準のネイティブは非常に多い。結局ただ、日本人が英語に不向きなことに勝手に腹を立てているだけである。
私はよほどの熟練者でない限り、ネイティブの人に(英語の用法ではなく)
英文法のことは聞かないことにしている。というのも、彼らのたいていが"Let me
see..."と始まり 、その後一時間あまりも私は彼らと、日本人には当たり前の
英文法の事項をいちいち確認しながら談議をしなければならないはめに陥るから
だ。
(独自の最新の試みを多く導入している諸大学の授業は別だが)、ネイティ
ブとともに行う中学高校の授業には悲惨なものが多い。せっかくのネイティブは
お人形扱いで、学生たちはかなりフレンドリーに接していても、心のうちでは甘い羞恥心にも似た感情とある種の劣等感を感じながらぎこちなく一時間を終える。(それもまったく接しないよりはマ
シではあるが、それならば英語教育以前の話である。)要するに本当に親しくは
なっていないのである。現状では生徒と講師が親しくなるには、講師側の表現力
にかかっている。その表現力を一般のネイティブの講師に求めるのは難しい話だ
ろう。結果「日本の学生はおとなしいな」「こんなもんかな」ということになる
。私の印象では、一言で言ってまだまだネイティブ講師は質が低い。それは単な
る教える技術の問題だけではない。それ以上に、彼らは日本人の若者の気質をま
ったくといっていいほど理解していないのである。せめて日本の若者を死ぬほど
好きな人たちであればと思う。(そんな人たくさんはいないけれど)。それにだ
いたい、ネイティブたちは日本で自分の意見をまったく言えない。彼らの責任も
大いにあるがそれ以上に彼らもまた日本文化が与えた「ガイジン」という立場の
枠にはめこめられてしまっている。その点で彼らもまた被害者である。
結論:外国人は日本人をもっと勉強せよ。(太平洋戦争の時アメリカ人と同じくらい
は。)
中学で初めて英語を知った時、無意識のうちに「日本語と違うな」「これが
英語の感覚だな」とインプットされる重要なインパクトの一つに疑問文による倒置がある。この規則は日本語にはまったくない、初心者には驚天動地の法則だ。
また、文章の最初から相手に対する疑問の感情を明確にして語るという方法自体
が、なんでもあやふやにしたがる日本人のメンタリティーからすれば非常に新鮮
で、堂々とした欧米人の発言態度とも重なってくる。この感覚はかなり無意識的
に脳にインプットされるものである。
また中学英語の最初に知る単語に am, is, are等のbe動詞がある。これは他の動詞とまったく用法の違う特別な動詞である。do(es)なし
で疑問文や否定文を作ることができるのである。私が見るかぎり、中学生の英語
苦手意識の多くがまずdoを使う動詞とbe動詞の用法の区別がつかないことである
。彼らの頭の中にはたとえばAre you〜?が相手に対する疑問文の形式だとすりこ
まれてしまい、いつまでたってもDo you study?とすべきところを 、Are you study?
とする者が多い。「小さいことじゃないか」と一笑に付す人は英語を教えたこと
のない人である。何でもそうだが、第一印象の力は大きい。理屈で百回同じこと
を言っても言ったそばから間違えるのである。経験の浅い教師はたいてい熱くな
ってそこで怒ってしまう「今言ったばかりじゃないか」と。(最初のうちは本当
に理屈抜きに腹が立つものである。)しかし怒った時点で教育はおしまいである。生徒は完全に自己暗示的強力マインドコントロール下に置かれており
、絶対に正しい答えは言わなくなっている。そして教師が怒らなくても、自分を
責め自分を馬鹿だと思いはじめている。これで一言でも教師がこの心の声に加担したらおしまいである。(そんな時は
気分転換しかない。)
このような無益な労働を強いている諸悪の根源の一つがbe動詞である。"You are a student." なんて教えなくてもなんとかなるし。それよりも生徒
たちのこの混乱を避ける方が急務である。おそらく反論派は「こんなによく使わ
れる動詞を二年間も教えないわけにはいかない」と言うかもしれないが、どちら
にしても日本の生徒たちは中学三年までで一般の英文を読んだり、英会話をした
りすることはできないのだから、後回しにしてよいのである。中学三年になって
一般動詞の基本的な使い方がベースに敷かれてから、特別項目で「定義をする時
はbe動詞がある」と教え、それからその次に「存在を示す時もbe動詞が使える」
と教えるべきである。これだけでも中学生の無駄なストレスと劣等感はかなり減
るだろう。問題はストレスだ。ストレス・劣等感さえなくなれば英語はできるようになる。
中学一年用の英語教科書はかなりひどい。あれは英語を学ばせるなんてもの
ではない。ただの文例集である。十二〜三才の子供達の思考力をあまりに馬鹿に
している。この脈絡のない構成には「英語に慣れさせるのが目的」という大名目
があるのだが、もし本当にそれが目的なら中学一年次は英語の定期試験をしては
いけない。慣れる慣れないのレベルで子供達の得点づけをしてはいけない。(中
学の父兄参観に代理で出席したことがある。恐るべきひどい授業だった。発音・
スペリング・授業の雰囲気・教師の熱意、どれ一つとってもこれが授業かと疑わ
れても仕方がないような内容だった。そして定期テストの採点法に至ってはほと
んど息が詰まる思いだった。間違った英語しかできない教師による間違った英語
を間違ったとおりに書かないと点数がもらえないのだ。)十二才でももう立派に日本語を使っているのだから、もっと論理的に五文型か
ら教えて、日本語との構造上の違いを教えるべきである。「英語を感覚的に」などというポリシーの大半は大嘘である。脈絡のないことを教えることが感覚的なやりかたではない。テキスト作成側が
「わかりやすく」と思っていることは、日ごろ日本語を話している若者たちの感
性と完全に相反し、英語の感覚を根絶やしにしてしまうのである。
現在の英語の、メイン・テキストは副読本に降格させるべきだ。
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